法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

TVアニメ『魔法科高校の劣等生』第4話を見てみたら、主人公側が一方的に説明するだけで終わってしまった

http://gyao.yahoo.co.jp/p/00871/v12187/
もともと緊張感ある構図で会話劇を見せるアニメも嫌いではない。会話の内容にしても、発想の面白さや駆け引きがあれば楽しめる。TVアニメ『ガサラキ』の国学者と敵首領の対話のように、明らかに思想に狂った主張がおこなわれていれば、それはそれで面白かったりするものだ。
しかし、この第4話の前半で描かれた主人公の能力や、後半で判明した敵対組織については、会話劇で見せる必要がそもそも感じられない。情報量としては、モノローグやナレーションで説明すればすむくらい。
第4話で良かったのは、煽情的すぎてギャグになっているカウンセリング室シーンと、十文字という先輩の登場シーンくらいか。ここまで対立した相手には常に圧倒していた主人公が、初めて気圧される場面だった。


前半でひどいのが、発表しては危ない情報だといいながら、わざわざ友人に「オフレコ」と断って詳細に説明すること。
まだ妹が情報をもらすまでは理解できる。主人公の能力を秘匿するよりも、主人公への称賛を集めることを優先する性格なのだから。しかし妹が情報を少し洩らしたからといって、主人公が解説するのは理解できない。ここで友人を巻き込む意味がどこにある。
この主人公の能力を読者へ説明したいなら、妹との会話で説明するか、モノローグで説明すればいい。つまり主人公の凄さを友人が称賛すること、ただそれだけのためにオフレコ発言がおこなわれたのだ。
これで主人公が自慢話を好む性格であれば、それはそれで一貫性があっていいのだが。そういう自尊心に満ちた主人公も、いっそ貫けば好感が持てる。


後半でひどいのが、秘密組織の存在が主人公に知られる経緯と、それを知った主人公の凄さを周囲の反応で表現する無茶。
まず秘密裏に活動している団体が、主人公に追いかけられて逃げる時、身につけていたもので正体がわかるという発端が良くない。現実の集団的犯罪も案外とそのような経緯で発覚したりするものだが、それにしてもアニメとして見せ場になるところだろうに。格闘戦で服が破れて正体が露見したりすれば、少し印象は違っていただろう。
はっきり悪いのが、その団体の正体について生徒会で言及した主人公に対して、なぜ情報規制されている団体を知っているのかと生徒会役員が驚くところ。たとえエリートであっても生徒会役員でしかない学生が知っていることの奇妙さに驚かざるをえない。生徒会役員の大半が知らず、たまたまコネクションを持っていた一人だけ驚くとか、もっと見せようはあったろうに。


そして問題の団体についての、主人公と妹の会話がとにかくひどい。
TVアニメ『魔法科高校の劣等生』を見て納得できる視聴者はいるのか - 法華狼の日記
上記エントリで第3話までの感想を書いたところ、第4話の演説がひどいというコメントを見かけたのだが、「演説」であればまだしも良かった。演説であれば一方的に情報を流すことは当然だし、意図的に極端な主張を選んでもおかしくはない。しかし信頼している妹に対しては、さまざまな可能性を慎重に語るべきだろう。
また、政府に抗議している社会運動が、敵対国家の陰謀によるものだという設定までは許容できた。ありきたりな設定ではあるし、その敵対国家の設定も凡庸さを感じざるをえなかったが、それゆえ事件の発端には使いやすいだろう。敵対国家の陰謀から導入しつつも、それと協力せざるをえなかった運動側の心情や、そうした社会の断絶をつくりだした国家の問題を描くことだってできる*1
しかし差別とは何かと問われた妹の回答がおかしい。「本人の実力や努力が社会的評価に反映されないこと……でしょうか?」という差別の定義は斬新だ。それも差別のひとつだが、差別とは何かの答えとしては誤っている。
社会運動側の差別認識が「平均収入の格差」だという主人公の説明も少しずれがある。そこで台詞で検索したところ、原作版の会話部分がWEB魚拓されていたことを知った。一応、収入が差別されている状況の証拠として使われていたことはわかったのだが……
【魚拓】魔法科高校の劣等生~初年度の部~ - 1−(19) テロリストの大義

「奴等は魔法師とそうでないサラリーマンの所得水準の差を、魔法師が優遇されている根拠としている。
 奴等の言う差別とは、詰まるところ平均収入の格差だ。
 だがそれは、あくまで平均で、あくまで結果でしかない。
 高所得を得ている魔法師が、どれほどの激務に晒されているのか、その点を全く考慮していない。
 魔法スキルを持ちながら、魔法とは無関係の職しか得られず、平均的なサラリーマンより寧ろ低賃金に甘んじている大勢の予備役魔法師の存在を完全に無視している」

頭がいいという設定の主人公の台詞とは思えない。「一般論」として、実力をえられること、努力できるだけの余裕があるかどうかは、環境も大きな要素だ。予備役魔法師の存在も反論になっていない。
仮に、既存の社会とは異なる倫理観を持った社会を説得的に構築できるなら、それはそれでSF作品らしくて面白かったかもしれない。殺人が罪にならない社会を描いた藤子・F・不二雄『気楽に殺ろうよ』は傑作だ。しかし主人公の主張は新自由主義の凡庸な焼き直しにすぎず、魔法がある設定から必然的に構築された階級社会の説明ではない。


あと根本的な疑問として、なぜ魔法をまともに使えないのに魔法科高校に入って悩む生徒が出てくるのか、なぜ他の才能を評価されたいと訴えるのかが疑問だったのだが、前後して原作で説明している部分を読んで唖然とした。

魔法科学校は魔法を役立てよう――それが自分の為であれ他人の為であれ――と考えている人間が、魔法を学びに来るところだ。
 魔法科高校の生徒が魔法を否定するのは、自家撞着でしかない。
「当たり前に考えればおかしなことなんだけどね……
 その『当たり前』が通用しないから、ああいう気狂いどもが蔓延るんだよ」

これを読む前は、少しでも魔法の才能があれば強制的に入学されてしまう設定なのだろう、つまり評価されるような才能がない時は飼い殺しされてしまうのだろうと想像していたのだが、好意的に考えすぎていたらしい。
あるいは、自身が正義だと信じる邪悪な存在を主人公にした作品だというなら、まだわかる。ここでの主人公は敵対組織とは別次元で考えが幼い。それも学生らしさの表れといえばそれまでかもしれないが……

*1:ちなみにエントリで比較した『シドニアの騎士』にも、反戒厳令団体がデモをおこなっている場面がある。演出として、かなり滑稽に描かれていた。しかし百年も敵が来ていない閉鎖環境で戒厳令がつづいているという設定や、上層部がさまざまな情報を隠蔽しているらしい現状を、台詞ではなく情景で説明するという意味は感じられた。