下記NAVERまとめ記事では、ツイッター等の指摘にもとづき、アニメ版の表現が漫画版から引いてあると主張している。
アニメ版魔法科高校の原作との違いまとめ~入学編~ - NAVER まとめ
その結果として主人公妹が腰をかがめたり、おおげさに喜んだりするアニメ描写になったという。
オーバーアクトの原型になったとして、原作の挿絵に対しても批判がある*1。
小説の本文自体には、振り向いて顔に手を当てるという表現自体がなく、挿絵の時点でオーバーな表現になっている。
本来ならその場で顔を赤らめているだけの、慎ましいイメージになるはず
結果として、原作小説の淑女像にそぐわなくなったと批判している。
しかし、準拠するべきと主張されている小説の描写が、なぜかあまり具体的な出典を示されていない。
本当に原作の主人公妹は淑女らしいのだろうか。
実は、アニメ版の主人公妹が淑女らしくないという批判は以前にも見かけたことがあり、その時もアニメから入った者として疑問をいだいた。
『ガサラキ』でツイッターを検索していたら『魔法科高校の劣等生』が似ているというツイートを見かけて慟哭しながら能を舞っている - 法華狼の日記
兄が女性とかかわることへの嫉妬心を押し殺すことができないし、秘匿しなければならない能力を兄自慢のため漏らすようなことをしているのだから、そもそも「自らの言動を厳しく律し、隠そうと思えば内心を押し隠せもする自制心」を持ちあわせたキャラクターになりようがない。それらが原作には存在しないTVアニメオリジナル描写という話も聞かない。
仮に、自制心の強いキャラクターが兄だけには自制心を失ってしまうという描写のつもりならば、基本を見せないまま応用だけ見せることこそが問題なのだ。
これについてコメント欄で下記のように指摘され、たしかに原作小説よりも自制心が弱くなっている部分もあるようだと知った。
?追記 2014/05/13 16:14
原作に「ムッとした表情を押し殺すためにうつむく」といったシーンがあります。そのシーンをアニメにしたのがこちら↓
http://blog-imgs-67.fc2.com/r/a/k/rakusyasa/3678721.jpg
このあと制服をつねるような仕草をするのもアニメオリジナルで、原作では「抓りあげるなどはしない分別を備えている」とわざわざ
書かれているのにあえて制服をつねるカットを追加しています。
しかし似たような場面をWEB小説版で確認すると、アニメ描写との齟齬は感じない。
【魚拓】魔法科高校の劣等生~初年度の部~ - 1−(18) 背後組織
「俺が訊いているのは、特定の個人の正体ではなく、グループの正体なんですが」
腕がクイッ、クイッと引かれるのを感じた。
目だけを動かして見ると、机に隠れて深雪が彼の袖を引っ張っていた。
踏み込み過ぎだ、と言いたいのだろう。
じゃれ合いを始める生徒会長と風紀委員長。
その間、達也は素知らぬ顔で明後日の方角を向いていた。
妹の冷たい眼差しにも、気づかぬふりをして。
せっかくアニメ化するなら、動作を描写できる場面を選びたいのが演出家の人情というものだろうと想像する。
そもそも原作の時点で根本的に、兄のことで妹が自制心を失うことは周知の事実となっている。九校戦編でバス移動する時のエピソード、いわゆる「バス女」*2が代表だ。
【魚拓】魔法科高校の劣等生~初年度の部~ - 2−(7) 交通事故
「……まったく、誰が遅れて来るのか分かってるんだから、わざわざ外で待つ必要なんて無いはずなのに……
何故お兄様がそんなお辛い思いを……」
遂にブツブツ声に出して愚痴り始めた深雪は、ハッキリ言って怖さ倍増だった。
「独り言を聞かれていたとは思っていなかった」という説明があるとはいえ、淑女なのに満員のバスで愚痴をいうとは、なかなかできることじゃないよ。
そしてそんな主人公妹に対して、おおげさに主人公をほめるという選択をとる少女があらわれた。
雫はそこへ、すかさず、普段の口数の少なさが嘘のように畳み掛けた。
「バスの中で待っていても文句を言うような人は、多分ここにはいない。
でもお兄さんは『選手の乗車を確認する』という仕事を誠実に果たしたんだよ。
確かに出欠確認なんてどうでもいい雑用だけど、そんなつまらない仕事でも、手を抜かず、思いがけないトラブルにも拘らず当たり前のようにやり遂げるなんて、なかなか出来ることじゃない。
深雪のお兄さんって、本当に素敵な人だね」
こうして妹の不満をそらすことに成功した。身をていしてギャグキャラと誤解されてまでイエスマン化するなんて、なかなかできることじゃないよ。
他の場面では依存が高じたために、再生前提とはいえ兄を殺すような場面まである。こうした描写があるかぎり、妹が感情を抑えつづけられないこと、それが周囲に気づかれることは変えられない。
妹が常に感情を隠せるという前提でアニメを批判するのは、いささか筋が悪い。
どこまで感情を隠しとおせるのか、どこまで上品にふるまうことができるのか、そうした検討をする必要がある。たとえば主人公は、基本的に法律を守ることを道徳や倫理よりも優先するが、テロリストに対しては学生だけで攻撃に行って虐殺することを選んだりする。かなり独自性のある主人公像ではある。同じように主人公妹の淑女基準を説明できれば、やはり原作の個性を説明できるだろう。
もしくは、原作とは別個の個人的な理想像を前提として、そのようにアニメ化してほしかったと願うかたちにするべきだ。たとえば『ルパン三世』のように、原作とは別個の各アニメ版を理想とするファンがついて、シリアスにしてもコメディにしても逆を好むファンから批判されやすいという作品もある*3。自覚的におこなうのであれば、それはそれで自由だろう。
ちなみに出典ツイートの多くをになっている[twitter:@StBeSe]氏だが、どうもアニメ知識に欠けているとしか思えないツイートを見かけた。
制作会社は異なるが、同じ小野学監督の『境界線上のホライゾンII』は、1クール作品なのに終盤の作画監督数はさらに多かった。
境界線上のホライゾンⅡ - アニメスタッフデータベース
魔法科高校の劣等生 - アニメスタッフデータベース
実際のスタッフを個別に見ると、人数が多い原因が別であると推測できる。
「総総作画監督」という不思議な役職についた石田可奈はもちろん、ずっとメカ作画監督やアクション作画監督をつとめているジミー・ストーンも文庫版挿絵にかかわっている。どちらも育成という立場で参加しているとは考えにくく、できるだけ文庫版原作のビジュアルイメージを再現するための登板だろう。ひとりが全話数に参加することは難しいので、先に最低限の修正をおこなう作画監督をたてて、それを総作画監督という立場で修正するわけだ。
ジミー・ストーンと分担するようにアクション作画監督をつとめている岩瀧智など、1980年代から活躍をつづけているベテランだ。今さら育成のために呼ぶということありえない。他の作画監督もベテランであれ若手であれ、すでに総じて高い評価を受けているアニメーターばかりだ。
岩瀧智 - 作画@wiki - アットウィキ
むしろ全体の統一を優先してアニメーターの個性を抑えるために、やたら作画リソースを必要としている事例と考えるべきだろう。くわえて、スケジュール不足のため、作画監督を多く必要としていることも考えられる。いずれにせよ、クレジットされている作画監督名からすれば、わざわざ育成しているとは考えにくい。
こうしたアニメ批判や原作賞賛こそが作品を悪目立ちさせ、期待外れからくる作品批判をまねいているのではと思わざるをえない。
*1:画像出典のツイートは、本文との違いまでは主張しておらず、原作と同じと説明している。https://twitter.com/StBeSe/status/509506366923214848/
*2:あくまで皮肉まじりの通称だが、ニコニコ大百科に記載がある。http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E9%9B%AB
*3:それぞれの批判の妥当性とは別問題。