法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「人間動物園」で踊る「黒いヴィーナス」が踊る

人間らしくあろうとすること、人間らしくあること、人間らしくありつづけること。
そのためには相手が対等な人間と認めることだ。


NHKスペシャル』の「アジアの"一等国"」*1に対する名誉棄損訴訟の高裁判決で、原告側の訴えが一部分ながら認められた。「人間動物園」という表現と、取材者に対する説明不足が問題になったようだ。
http://www.47news.jp/CN/201311/CN2013112801001632.html

須藤典明裁判長は、1910年にロンドンで開かれた博覧会を取り上げた部分について「博覧会に参加した植民地の人々を画面上の文字などで『人間動物園』という差別的な言葉で表現した」と述べ、放送による名誉毀損を認めた。

「人間動物園」は台湾先住民の名誉毀損、NHKに賠償命令 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 台湾は当時、日本の植民地下だったが、遠方のほとんど知られていない民族を展示するのは当時の西欧列強国の間では一般的に行われていた。

 人間動物園という表現は、台湾先住民のパイワン(Paiwan)人が文明的でないことを示唆するもの。判決文の中で須藤裁判長は、NHKが差別的な意味があることに配慮せずにこの単語を繰り返し使用したと指摘したと、東京新聞(Tokyo Shimbun)は伝えた。

たしかに、被害者へ被害の存在を伝えること自体が精神的な傷を負わせかねないという問題はある。ジャーナリストは常に念頭におくべきことだろう。
しかし、その配慮不足が名誉毀損にあたるかというと疑問に思わざるをえないし、歴史を描こうとする表現や報道に対する制約として厳しすぎる。人間を動物園の生態観察対象あつかいしたのは当時の帝国主義国家であって、その実態をNHKが報じたという順序だ。NHKが批判されるべきというなら、それ以上に過去の日本社会が批判されなければおかしい。
それに「人間動物園」という言葉は『NHKスペシャル』の造語ではない。当時に用いられていた「anthropozoological exhibitions」という言葉の翻訳とNHKは主張していた。
NHK・JAPANデビュー 第1回「アジアの“一等国”」の説明・追加 7/22 - Transnational History
そうでなくても、被差別民族が博覧会で見世物にされていたことを指して過去から用いられていた。2011年にフランスで過去を批判的にふりかえる展示会が開かれたという報道記事でも、同じ表現が用いられている。
「人間動物園」、植民地支配の負の歴史を伝える展示会 フランス 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News

【11月29日 AFP】仏パリ(Paris)のケ・ブランリー美術館(Musee du Quai Branly)で28日、「作られた未開人(the invention of the savage)」展が開幕した。かつて欧州各国の植民地から連れてこられた先住民たちが、動物のように見せ物にされた歴史と向き合う展示会だ。

 見せ物興行はヨーロッパ各地に加え、米国や日本、オーストラリアでも行われた。これらの国で見せ物となった植民地の先住民は3万5000人あまりとみられ、見せ物となった先住民には対価が支払われたという。

この記事にあるように、たとえ対価が支払われた仕事であったとしても、見世物にされた人の尊厳が守られたという充分条件にはならない。


見世物にされたひとりに、ジョセフィン・ベイカーという女性がいた。20世紀に「黒いヴィーナス」と呼ばれたダンサーだ。
Josephine Baker - The Official Licensing Website of Josephine Baker
黒人ダンサーのアイコンとして見おぼえはあったが、実在した個人と私が知って興味がわいたのは最近のこと。アニメ映画『ベルヴィル・ランデブー*2に、すぎさった時代の象徴として冒頭にダンスショーが描かれており、その情景が印象に残ったのだ。
http://www.cmgww.com/stars/baker/about/photopages/photo34.html

バナナに似せた衣装を腰にまとっただけの半裸体でダンスを披露し、パリで成功をおさめたジョセフィン。
故郷の米国に戻ったが、差別に苦しんで仏国籍を取得。レジスタンスとしてナチスドイツと戦い、勲章をうけた。
第二次世界大戦後は米国の公民権運動を支援したり、多様な人種の孤児を集めて育てる活動をおこなった。


そのジョセフィンの足跡を追った2006年の書籍でも、「人間動物園」という言葉が用いられていた。もちろん2009年の『NHKスペシャル』よりも早い*3

黒いヴィーナス ジョセフィン・ベイカー―狂瀾の1920年代、パリ

黒いヴィーナス ジョセフィン・ベイカー―狂瀾の1920年代、パリ

内容(「MARC」データベースより)
アール・デコチャールストンに沸く時代、ピカソ、ルソーといった著名人をはじめ、パリ中を虜にしたひとりのダンサーは、同時に「人間動物園」で「展示」されていた人種でもあった。生誕100周年、初めて明かされる全像。

著者のサイトで、著作の解説文や取材後記が公開されている。
http://members2.jcom.home.ne.jp/creojbvn/PAGE4.HTM
読んでいくと、ひとつの章が人間動物園の解説にあてられていた。

1841年アメリカのサーカス王バーナムの始めた「げてものミュージアム」に、ヨーロッパで最初に飛びついたのはドイツの動物王ハーゲンベック。彼がアフリカなどから集めてきた部族民の巡回展示はヨーロッパ各地で大評判となった。

この人間動物園というアイディアを真っ先に取り入れた動物園がパリの動物馴化園だった。1877年、手始めにアフリカの動物とアフリカ人を並べて檻の中で展示。大評判に気をよくした馴化園はアフリカ人だけでなく、エスキモー、ラップ人などを次々に並べて、いずれも大ヒット。人間動物園は最新ファッションとして、またたくまにヨーロッパ中に広がった。

人間動物園の流行は万博における植民地展示に受け継がれ、パリなどの万博には必ず、会場内で「ソヴァージュ」たちが生活する植民地村が設置されることになった。画家アンリ・ルソーの書いたヴォードヴィルの台本でも、1889年パリ万博における植民地人の展示への熱狂が大きく取り上げられている。

ジョセフィンは黒人奴隷の血を引く米国出身者だが、植民地出身者の装いをまとわされ、「人間動物園」で見世物となった。

人間動物園の最後にして最大のイヴェントは、1931年パリで開かれた国際植民地博覧会だった。
この催しに合わせて、カジノ・ド・パリはショーの主役にJBを初めて起用。JBはさまざまな植民地人を演じて大奮闘。安南娘に扮して唄ったコロニアル・シャンソンクレオール女に扮して唄い踊ったマルティニクのビギンも大当たり。しかし最大のヒットは、アフリカ娘に扮して唄った「二つの恋」。「私には恋するものが二つある。それは故郷とパリ・・・」という文句はJB自身の立場と相俟って、彼女を象徴する曲となった。


たしかにジョセフィンは演じることで大金を手にした。歌手や俳優としても人気をはくした。
それでも長らく差別的な待遇から逃れることはできなかったし、集めた人気も差別的な視線と表裏一体だった。
対等な人間としてジョセフィンが芸を見せ、わけへだてなく観客を楽しませるという当然の関係になるまで、多大な努力を求められた。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/feature/hachioji1270461519020_02/news/20100405-OYT8T00984.htm

イカーは自分にできるところから差別撤廃を試み、黒人観客を認めるインティグレート(人種統合)を公演の契約条件にして闘いました。
 51年10月ニューヨークで「ストーク・クラブ事件」が起きました。カフェ文化の中心地とも言われ、ジョン・F・ケネディなども利用したニューヨークの高級レストランを人種統合しようとしたのです。ベイカーは数人の仲間と入店したのですが、何を注文しても食事の提供を拒否されました。ベイカーは抗議行動を起こし、さらに世界に対してアメリカの人種差別の実情を訴えていったために、米連邦捜査局FBI)の調査対象になりました。

ジョセフィン自身は誇りをもって舞台にのぼっていたのかもしれない。それでも舞台を見つめる観客と社会の側は批判され、変わらなければならなかった。


ちなみにジョセフィンは孤児養育活動のため、いったんショービジネスの世界から身を引いた。しかし異民族の養子12人と古城で共同生活する「虹の部族」は、個人の理想をたくされたがゆえに、必ずしも幸福な生活ではなかったという。養子の視点からは、実際の家族のように仲良くすごしつつも、理想の型にはめられた生活を余儀なくされ、見世物にされているという感覚もあったそうだ。自分の人生を歩んでみせたジョセフィンだが、養子に自由な人生を歩ませられたとはいえなかった。
正しくあろうとすること、正しくあること、正しくありつづけること、その全てを一個人がつらぬくことは難しいのだろう。慈善事業へ大金を寄付したり、公民権運動に参加したりしたジョセフィンだが、個人事業だった「虹の部族」は継続性や発展性に欠けていた。
生活を維持することも難しく、古城は売却され、養子は別々の生活を送ることとなった。経済的に困窮したジョセフィンはショービジネスへ復帰する。ストーク・クラブ事件で知りあったグレース・ケリーから支援されながら、晩年も舞台に立ちつづけた。
亡くなったのは1975年の公演直後、68歳の時。公式には、はじめてジョセフィンが舞台にあがってから、ちょうど50年目のことだったという。

*1:http://www.nhk.or.jp/special/detail/2009/0405/index.html

*2:感想はこちら。ただしジョセフィンへ言及はしていない。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20130330/1364659113

*3:http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090423/p1にあるように、さらに古い1992年の書籍でも使用例がある。