法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『さくら荘のペットな彼女』異なる媒体を駆け抜けろ

原作改変と必要充分 - 法華狼の日記

原作から改変された場合、なぜ改変されたのか考えるという楽しみも知ってほしい。悪い改変が、原作の良さを再確認させることもある。素晴らしい改変は、原作の良さを浮き上がらせることすらある。

一例として、先日に最終回をむかえたばかりのTVアニメ『さくら荘のペットな彼女』について語ろうと思う。
水明芸術大学附属高校の特別寮さくら荘へ入寮した少年少女を描く青春ラブコメだ。原作者がアニメ制作に深く関与しつつも、アニメ化によって必然的に原作改変される要素が多く、その改変結果が興味深いものとなっている。

はじめに:改変五断章

この作品に対しては、いくつかの原作改変に対して、大きく別けて二度の騒動が起こされた。それぞれ、お粥がサムゲタンに変えられていたことと、卒業式に国歌斉唱がなかったことだ。
しかし騒動の詳細を見ていくと、時系列を前後させたりした大きな改変の一部だけ注目していたり、原作改変ではない部分も同時に対象とされていた。むしろ大多数の原作改変を無視して二箇所にだけ注目する側の心理に原因があることが、二度にわたる騒動ではっきりしたといっていい。
その二度にわたる騒動より、はるかに主題と深く結びついた原作との差異が複数ある。そしてその差異を見ていけば、アニメスタッフは単純に原作を軽視しているのではなく、媒体の変化にあわせて作品を輝かせるため、よく咀嚼していたのだとわかる。もちろん、原作者がアニメ制作へ深く参加していることとも無関係ではないだろう。
ここでは、説明的な長台詞の省略、料理を用いた表現の強化、絵にも描けない美しさを描く困難、文字と映像の叙述における差異、どこに結末をおくかという構成、という五要素にしぼって見ていこう。

説明的な長台詞の省略

まず、ゲームやアニメの制作について、ユーザー層や技術を論じる会話の多くが省略されていることについて。
クリエイターや志望者がつどう作品において、小説という媒体で制作過程を説明すればリアリティが生まれるし、読者の知的好奇心をそそることもできる。
しかしアニメでは、動きのない場面で長々と解説をする描写は、個人的には好みではあるものの、場をもたせることが難しい。しかも背景に映るだけならともかく、具体的に複数の作品名にふれて内容を論じているため、権利関係から考えても台詞を直接再現することも困難だろう*1
もちろんアニメで細かな制作過程が長台詞でふれられた場面もある。歓迎会の最中に創作談義をはじめる第1話の先輩が代表だ。しかし細部を視聴者が理解する必要はなく、むしろ理解できないやりとりをしていることを、長台詞で表現したといえる。内容が理解できる作画オタクにとっては楽しい描写でもあったが。
ゲーム企画をプレゼンする主人公空太を描いた第16話でも、プレゼンする台詞は途中から小さくなり、画面には企画を小声で評価する担当者が映し出される。ここでの長台詞も内容を視聴者が細かく知る必要はなく、プレゼンしている雰囲気を盛り上げる背景音としてあつかわれていた。
もちろん、心情をのせた力あるダイアローグであれば、長台詞であっても充分に場面がもつ。この作品においても、クライマックスにおいては熱のこもった会話劇が存在する。

料理を用いた表現の強化

次に、料理を通した表現について。先述したように第6話ではサムゲタンばかりが注目されていたが、前半に登場したオムライスもアニメ独自の描写だった。声優オーディションの準備をおこないながら、寮生としての家事も完璧にこなそうとする少女七海の、無茶な奮闘ぶりをよく表現していた。
『さくら荘のペットな彼女』サムゲタン選択的批判という問題 - 法華狼の日記

すでに指摘されていたように、このオムライスはサムゲタンとの対比表現であることも明らかだ。米を心の比喩と見て、内部に隠すか晒すかという対比……という解釈は深読みだとしても、対比する表現であること自体は台詞からはっきりわかる。以前の補足エントリから説明を転載する。
(きこえますか…あつこよ… 今…ネットの…海で…呼びかけています… サムゲタン…擁護したのは…作豚です… 萌豚は切り…作豚に…媚びるのです… 劇中アニメに…yamaを呼び…arasanを呼び…吉成鋼を…呼ぶのです… そして…スケジュール…崩壊させるのです…) - 法華狼の日記

食べさせる立場から、食べさせられる立場への変化は、明らかな対比表現だろう。

あえてエントリでは紹介しなかったが、七海が調理したオムライスを一口食べた美咲は、「……完璧すぎ」と評している。サムゲタンを七海へ出す理由について美咲が「弱みを見せてくれたから」と語ったこととの対応であると、ほぼ明確だろう。

また、原作とアニメでは、それぞれ普通の単純な粥との違いを、異なる角度から表現していたともいえる。アニメ業界人の一人*2が、騒動の初期に「お出汁香るシンプルなお粥を美味そうに描くのは至難の業」とツイートしていたことがある。そのツイートに対して、他のTVアニメでは粥が登場していたという反論もある。
さくら荘のペットな彼女原作改変問題とは (サクラソウノペットナカノジョゲンサクカイヘンモンダイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

・・・とのことらしいが、6話のスタッフは別のアニメでおかゆを描写していたりする。

そのツイートが制作デスクという立場から出たものという特異性は、以前に説明しておいた。
『さくら荘のペットな彼女』と公式サイト各話スタッフ欄問題 - 法華狼の日記

他のTVアニメにおいてさまざまなお粥が描かれてきたという主張は、制作リソースを考慮した意見に対しては異なる次元の話であり、反論にはならない。

アニメ制作は集団作業である以上、一部のスタッフに経験があることと、そのスタッフの信頼や期待に別のスタッフが応えられる状況にあることとは、全く異なる話だ。そもそも「6話のスタッフ」が誰を指しているのかが、よくわからない。
さらにツイートで指摘されていたのは、ただ粥を描くことが難しいという話ではなく、出汁で炊くという珍しい粥を表現することが難しいという話だ。ただの粥を出せばいいというのではなく、調理した少年仁の能力を見せる場面である。つまり粥からサムゲタンへの改変は、嗅覚を説明できる媒体から嗅覚を表現しにくい媒体への変化にあわせ、適合する料理へ変更したともいえるだろう。
ちなみに同時期のアニメ『琴浦さん』では、風邪で寝こんだ少女に対して、少年が粥を食べさせた。その時、レトルトだと台詞で説明していた。これはこれで調理経験が足りないなりに思いやった表現として、わかりやすかったと思う。

絵にも描けない美しさを描く困難

残念ながら、媒体変化にあわせられなかったと感じる描写もあった。
この物語は、創作の才にあふれた少女ましろが、嫉妬と羨望と奮起の感情を呼び起こしていくところに主軸がある。しかし、ましろの絵画作品を空太は画集でしか知らず、主としてマンガへの情熱にばかり直面していた。そんな空太が、はじめて間近で見た絵画の才能にひきこまれる描写が第9話にある。作中で素晴らしいとされた絵や音楽を実際に提示することは、よほど表現主義的な作品でもない限り、文字情報から映像化すれば必ず原作から改変される。
外国から来た少女リタへ美術展へつれられ、ましろの絵を正面から見た七海と空太は、あたかも水中にいるかのような演出*3で心象表現がなされた。そして空太はましろがマンガから芸術の世界へ帰るべきだとつぶやく。

この描写は第9話の結末であり、次回へと続く問題提起である。しかし、そのように空太をひきこませるだけの説得力を、私は映像から感じることができなかった。もちろん、魂をひきこむほど美しい絵をTVアニメで表現することが難しいとは理解する。それまで主人公に魅力を感じさせたマンガよりも魅力的な絵画は、なおさら難しいだろう。『へうげもの』のように歴史的に権威のある作品を再現するのではなく、架空人物の作品でなければならないという問題もある。物語から考えると、モニターを通して見ている視聴者が魅力を充分に感じられなくても整合性はあるが。
しかしTVアニメで表現することが難しいとしても、権威の力を借りたり、見せずに誤魔化す方法もあったはずだ。この作品を手がけたいしづかあつこ監督は、マッドハウスで育ったアニメ演出家だ。その人脈のおかげだろうか、第1期EDコンテを『銀河鉄道999』や『幻魔大戦』を手がけたベテランりんたろう監督が担当していた。仮にりんたろう監督をはじめとしたベテランのアニメ作家が絵画を提供したと示せば、納得せざるをえない雰囲気が生まれたかもしれない。そうでなくても重要なモチーフなのだから、ここだけはスペシャルなスタッフを呼んでも良かった。
実際、近年にマッドハウスで制作した映画『時をかける少女』では、作中の重要なモチーフとなる架空絵画「白梅二椿菊図」を、ベテランの平田敏夫監督が手がけている。細田守監督はインタビューにおいて、普通なら日本画家に提供を願うこと、それを超えた魅力を求めて平田監督へ依頼したと語っていた。
http://www.kadokawa.co.jp/blog/tokikake/2006/09/post_95.php

最初は絵を見るってことだけを決めてて、どんな絵か探してたんですけど、実在する絵に適当なものは無かったんです。
描いたのはマッドハウス平田敏夫さんで、実はこの方は演出家なんです。『ボビーに首ったけ』とか『はだしのゲン2』とか、最近だと『花田少年史』のオープニングや『茶の味』の最後のアニメの部分とかもされてる。尊敬できる、素晴らしい演出家なんですね。
普通なら日本画家にお願いするんでしょうけど、そこを敢えて演出家の平田さんにお願いした。平田さんの絵って、何かとっても暖かいていうのかな。色んな物を含んでいて暖かさがある。この作中の絵も、描かれた経緯が分からなくても何かが伝わってくるものがあるような絵なんだろうなと思っていたので、平田さんしかいないなと。

また、絵画を正面から視聴者に見せず、作中人物の反応から間接的に想像させる方法も有効だ。りんたろう監督のアニメ映画『火の鳥 鳳凰編』*4では彫刻家の競争が描かれ、いったん素晴らしい作品を提示した後、さらに素晴らしい作品が提示される。その彫刻は原作マンガにおいては全体像を見せており、失敗が許されない木彫りにおいて、さらに複雑な造形を見せたという描写で説得力を生んでいた。しかし映画では作品の全体像を見せず、評価する側の驚嘆する表情を描くことで、観客の想像力を喚起させていた*5。このマンガとアニメそれぞれの手法を絵画描写に適用するなら、超巨大な大判作品にして制作の困難さを想起させる描写と、絵画の全体像を画面に映さないという描写になる。ましろの絵の大きさに驚く展開が後半にあるし、間近で見て初めて本当の魅力が理解できたという展開にあわせるなら、後者を選ぶべきか。
最後に、作中人物の反応から想像させる応用例として、良さを完全に理解できる者とそうではない者の対比を描く方法もある。先述した『へうげもの』は創作側というより、価値観そのものを創って広めていく側の物語であり、ただ歴史の権威を利用するだけでなく、芸術作品の良さがどこかにあるかという文脈の伝達も重視していた。第9話で美術鑑賞したのは空太だけではなかったのだから、七海は良い絵と感じる程度の温度差を表現し、空太の感受性が特別に強いという描写にしても良かっただろう。

文字と映像の叙述における差異

文字と映像という叙述で、隠せる情報の違いについて。
騒動となった第23話の描写で、オムライスと同じく指摘が少ないアニメオリジナル描写がある。それは桜という作品名にも登場するモチーフのあつかいだ。
『さくら荘のペットな彼女』第23話の卒業式は、そもそも普通の卒業式ではない - 法華狼の日記

実は第23話においては、「日本」という国名へ意識的に言及した場面も存在する。それは物語の冒頭、桜の胸飾りが、外国の友人から主人公たちに贈られた時のことだ。

空太「リタ、これって?」
リタ「桜は、日本人の門出にとって、特別なものと聞きました。そこで水高のみなさんが同じ桜を胸につけ、卒業をむかえられたらと」

「さくら荘」の存続をかけた物語であるからこそ、国旗や国歌より優先されるモチーフとして、桜が使われた。外国人がわたす状況だからこそ、わざわざ日本固有の文化という言及がなされた。
本筋に関係しない過程として小さく言及されるより、ずっと作品に密接な描写として日本文化が賞揚されていた、とすらいえるかもしれない。

この桜の胸飾り自体は、卒業式で高々と投げる場面もふくめて、原作にも登場する。しかし上記のようなやりとりはなく、日本文化との関連づけは強調されなかった。そもそも原作の同じ場面ではリタが登場しない。つまりアニメスタッフは国旗や国歌のような卒業式における規範こそ重視しなかったが、より普遍的に見ることができる植物の固有性や思いやりの文化は魅力的に描こうとしていたわけだ。
それでは原作のおいて胸飾りがどう処理されていたかというと、最初はただの花の胸飾りとして描写されていた。そして卒業式でさくら荘の存続を決定するために胸飾りを投げる場面において、はじめて花の種類が桜であることがふれられる。もちろん作中人物は花の種類を知っていたが、ことさら意識はしなかったという、叙述の技法だ。読者はここで初めて桜であることを知り、胸飾りが舞う場面を印象深く読むことができるわけだ。
もちろん、花の種類だけ隠す描写を、そのままアニメ化することは難しい。描写するものを主観的に選択しやすい小説と、より客観的に描写せざるをえない映像の違いだ。だから叙述で種類を隠していた原作から、別の意味を重ねて隠すアニメへと、表現が変更されたのだろう。

どこに結末をおくかという構成

最後に、全体の構成が改変されていることについて。
この作品は、原作シリーズが未完の状態でTVアニメ化された。そこで原作の完結にあわせてTVアニメが最終回をむかえるように描写を調整するかと思われたが、実際には半分少しを消化した時点で最終回をむかえることとなった。時系列がいれかわったりアニメオリジナル回もあるが、だいたい第7巻の導入部が最終話にあたる。
だからといって時系列を組みかえた原作改変が意味不明になったというわけでもない。単純計算すれば、6巻までのライトノベルを全24話のTVアニメに改変すると、起承転結を四倍に増やさなければならない。一巻ごとの頁数を調節しやすいライトノベルと、尺に制限があるTVアニメとでは、各話の自由度も異なる。
しかしTVアニメ『さくら荘のペットな彼女』では、全体のシリーズ構成は明確でわかりやすい。コメディチックな奇数話で問題を提起し、シリアスチックな偶数話で問題への対応を描く。一話完結でありつつ、二話でひとまとまりの話題を描き、登場人物の成長などは偶数話ごとに確認できるようになっている。原作からの細かな時系列移動は、主としてこの構成を貫くためだったと思われる。


そして終盤に入って、特別寮さくら荘の存続問題と、空太や七海の夢にひとつの結果がくだされる展開が、同時進行で描かれる。原作の第6巻をアニメ化した展開だ。
原作においてはシリーズ中途の出来事であり、それほど大きな比重をもってはいない。さくら荘の存続問題は、登場人物が前々から歩いていた道の、ひとつの障害として背景的に描かれていた。いわば原作は、空太とましろの関係を中心とした、「ペットな彼女」の物語だった。
対するアニメでは、シリーズ全体をしめくくるクライマックスとして描かれている。原作と違ってリタが卒業式にいることも、重要な展開であることを示している。存続が決まった後の最終回も、かつての入寮者が思い出を語る場面にはじまり、新たな入寮者をむかえたところで終わる。つまりアニメは、創作に青春をかけた少年少女の居場所を中心とした、「さくら荘」の物語だったといえる。
二話ごとにクライマックスが来るシリーズ構成も、そのためかもしれない。空太と七海は、同じ挑戦者として、同等の重みを持って達成や挫折が描かれる。第22話では、三角関係に区切りがつくかと思われた直後、七海にましろが抱きついて、さくら荘の大切さを語る。
さくら荘のペットな彼女 第22話「きらめく日々を駆け抜けろ」 アニメ/動画 - ニコニコ動画

創作を通じた少年と少女の出会いに重点をおいた原作に対して、ひたむきに創作へ突き進む少年少女の群像劇としてアニメは再構成していたわけだ。そして、彼らを対等な価値ある存在として助けようとする大人や学友のドラマでもあったのだ。

おわりに:さくら荘のある 水明高校のある この社会を愛するすべての人へ

アニメを愛する最近の少年少女は、あまり屈託を持っていないという話がある。その傾向が事実だと仮定すれば、学校社会に溶け込めない、屈託ある少年少女を描いた物語は、現在では楽しまれにくいのかもしれない。実際にも、才能への嫉妬と羨望をあらわにする登場人物に対して、八つ当たりや逆恨みだという感想をよく見かけた。
そしてそうみなされがちな行動であることは、自覚的に描かれていた。特にTVアニメにおいては、登場人物から引いた目線で描いていることや、担当した声優の生々しい力演もあって、痛々しいほどの青臭さを感じさせた。
さて、そうした人間を異物とみなして排斥することが、はたして良い社会なのだろうか。問題があれば批判すべき場合はあるにしても、異なる人間が共存できて抑圧されない社会こそが理想だろう。それは学校という小さな社会も同じではないか。


さくら荘の存続をうったえる答辞において、水明高校へ行けば居場所がえられるだろうと中学の恩師にいわれた思い出が、周囲から浮いている少女の口から語られた。誰にでも居場所のある社会。水明高校全体を賞揚する内容だからこそ、あえて卒業式で読まれ、他の学生も存続意見を後押しした。

さくら荘の存続問題には、いずれ老朽化で取り壊さなければならないという側面もあり、これは解決しないまま最終話をむかえている。建物が消えても繋がりはなくならないという指摘が作中であったが、それも直接は否定されないまま終わった。だが、ここまでくれば、さくら荘はただの建物ではない。
たとえ取り壊されたとしても、はじきだされた少年少女の居場所が作られたなら、そこがさくら荘なのだ。


はたして私たちは、居場所のある社会を作りあげることができるだろうか。
他者の居場所がつぶされようとしている時、守ることができるだろうか。
居場所を守ろうとする住民を、応援することができるだろうか。

*1:実際、登場するゲームがスマブラからサムライスピリッツへ変更されたりした。小数の2ちゃんねるまとめブログが取り上げたらしいが、話題にならなかった様子。http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/g_ogasawara/archives/6749476.html

*2:ちなみにサンライズの制作デスクであった。絵面として単純になりがちなだけに、質感表現が重視される粥に対して、JCスタッフより撮影が弱いサンライズらしい見解だとも思う。

*3:ちょうどマッドハウス制作のTVアニメ『ちはやふる』で頻出する心象演出でもある。第一期では、いしづかあつこ監督もコンテ演出で参加していた。第9話のコンテ演出を手がけた二瓶勇一と佐藤真人マッドハウスや『ちはやふる』にかかわっておらず、この心象演出はいしづかあつこ監督の指示なのかもしれない。

*4:映画自体も、りんたろう監督の美学に染められた印象的な作品であった。手塚治虫公式サイトでプレビュー映像が公開されている。http://www.tezukaosamu.net/jp/anime/16.html

*5:ただし一方が負けを認めた後は、ロングショットで短時間だけ全体像が確認できるカットもある。