法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

核武装に繋がる原子力技術

産経新聞関西版のコラム【西論】が下記のような主張をしていた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120807/waf12080715100018-n1.htm

 「原爆」と「原発」を同一視すべきではない。

 広島、長崎の慰霊の日を反原発運動に利用するな。

 言いたいことはこれだけだ。あとは付け足しである。

もちろん「原爆」と「原発」を同一視するべきではない。あくまで一方の技術がもう一方に利用できるというだけだ。逆にいえば、相互に全く関連性がないという主張もまた、正しいとはいえない。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120807/waf12080715100018-n2.htm

 だから、当たり前のことだが、あえて強調せずにはいられない。核兵器と平和利用の原発はまったく異なると。

上記の主張だが、「一方で、核分裂のエネルギーを制御しながら利用する原子力発電が開発されたのは、ある意味、健全な科学の進歩といえる」という評価を行っているだけで、「まったく異なる」と主張できるだけの根拠は何ら提示されていない。
むしろ、原発を維持する理由として、堂々と核武装を口にする人々も増えてきたのが現状だ。
「核の潜在的抑止力」のために原発維持をと石破茂


たとえば、原子力基本法に「安全保障」が明記された時、核武装に繋がるものではないと産経新聞のコラム【主張】が擁護していたことがある。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120624/plc12062403110004-n1.htm

 だが、第2条の第1項を再度、確認してもらいたい。「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として」と、しっかり規定されているではないか。

 この第1項を受けて続く第2項の「安全保障」が核兵器開発などに直結しないことは明々白々だ。エネルギー安全保障や核不拡散を強化する意味での用法と理解するのが順当な解釈である。

しかし当時に東京新聞が報じたように、推進した自民党側から核武装を視野に入れた発言がなされていた。しかも同じ産経コラムの末尾で、下記のような主張も行われている。何のために長々と建前を書いたのか不思議に思うほど率直な本音だ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120624/plc12062403110004-n2.htm

 同時に、抑止力などの観点も含めて原子力技術を堅持することは日本の安全保障にとって不可欠である。非核三原則の見直しなどの論議も封殺してはなるまい。こうしたことも心に刻んでおく必要があるのは言うまでもない。

同日の【産経抄】でも同様に、建前と本音を同時に記述しながら「安全保障」を擁護していた。「抑止力という観点からも、原子力技術を今後ますます磨きあげなければならない」という考えは、原子力技術が核武装に繋がるという認識あってのものだろう。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120624/plc12062403070002-n1.htm

 22日付の韓国各紙が一斉に、日本の核武装を警戒する論調の記事を掲載した。事情を知らない読者は何事かと、いぶかるかもしれない。種明かしはこうだ。

 ▼20日に成立した、原子力規制委員会設置法について、朝日新聞東京新聞などは翌日の紙面で大きく取り上げた。設置法の付則に、原子力の利用目的として、「安全保障」の文言が盛り込まれたのが、けしからんというのだ。核の軍事利用を進めるとの疑念を国際社会に持たれる、と。

 ▼韓国側が、大好きな「軍国化ネタ」に飛びつかないわけがない。朝日はご丁寧にも22日付夕刊で、「韓国各紙が懸念」と伝えている。日本政府がこんなよからぬことを企(たくら)んでいると報じて中国や韓国を刺激し、その動きをまた打ち返して、自分たちの主張の正当化を図る。何のことはない。日本の歴史教科書が検定で「改悪された」と、両国に“ご注進”してきたいつもの手口である。

 ▼そもそも、どこに問題があるのか。食料自給率は安全保障に直結する、と書けば、誰もが納得するはずだ。エネルギー政策を左右する組織を設置するための法律に、その文言がない方がむしろおかしい。核物質をテロから守るという意味でも絶対に必要だ。

 ▼戦後の日本に原子力の軍事利用の道はなかった。ただ、抑止力という観点からも、原子力技術を今後ますます磨きあげなければならない、と小欄は考える。もちろん反対意見もあろう。

 ▼「ご注進ジャーナリズム」が、「反原発」だけでなく、そうした議論自体の封殺を狙ったとすれば、憂慮すべき事態だ。近隣の核大国中国と、核開発に突き進む北朝鮮は、日本人がかつての「平和ぼけ」に戻る日を、指折り数えて待っている。

おまけに韓国の報道機関から批判されたことを利用し、歴史教科書問題への批判を持ち出して、「ご注進」という態度問題へすりかえ、内容を問われていることを避ける詭弁まで使われている。


広島慰霊の日といえば、別の場所で核武装の欲望を隠さない主張も行われていた。当の産経記事で報じられつつ、批判的な評価はくだされていない。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120808/hrs12080802390000-n1.htm

 田母神氏は「平和を守るということは、自分の国は自分で守るということだが、日本はその当たり前のことができていない」と述べ、核保有国と対等に外交するためには軍事力のバランスに加え、情報戦で負けないことが大切と強調した。「この広島で、日本の核武装論議をするだけでも戦争の抑止力になる」との考え方を提示した。

 日下氏も「広島の人は核武装廃絶を世界に訴えておりそれは立派だが、永遠に、というと通用しない」などと指摘した。

抑止力としての核武装論議を推進し、核武装そのものもいずれ不可避となるかのように主張する講演は、日本会議広島主催のミーティングで行われた。協力しているのは日本会議広島の支援で作られた「平和と安全を求める被爆者たちの会」だ*1
前後して、広島原爆の日の式典について論評する【主張】でも、「脱原発」と「反核」を結びつけることを批判しつつ、「脱原発」と「反核」の両方に反発していた。わずか一つの段落においてである。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120807/plc12080703270004-n2.htm

 「脱原発」と「反核」を安易に結びつけてはならない。電力事情や経済上の理由だけでなく、原子力の技術継承の必要性からも、性急な脱原発は危険だ。北東アジア情勢が緊迫する中、米国の核抑止力の重要性も変わっていない。


とりあえず産経新聞に対しては、「原爆」と「原発」を同一視すべきではないというなら、まず隗より始めよといいたい。そして、なぜ広島や長崎の慰霊で反原発運動が行われるのか、反発するより前に自らを省みてもらいたい。
せめて、核武装に繋がる原子力技術を、平和利用にとどめる建前くらいは、最後まで守ってほしい。どの時期でもそうだが、この季節は特にそう思う。

*1:以前にエントリで簡単にまとめた。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100805/1281033114