法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

徴兵制をしけば戦争に慎重になるという法哲学者の謎

東京大学井上達夫教授が、憲法から9条を削除べきという持論を文藝春秋で改めて提言していた。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1387
最初は現状以上の米国従属を不必要と主張しながら、主体的な軍備の要求に一貫性を見いだしたり、ひとつの意見としては納得できるところがある。

最も鋭く指摘したのが清水幾太郎でした。彼は六〇年安保反対闘争で活躍しながら、後には日本核武装論を発表するなどして、転向したと批判されました。しかし、その論理を突き詰めると、主体性なき日米安保を脱却して、日本は自分で自分を守れ、と一貫している。


しかし護憲派へ批判の矛先を向けるようになってからは、首をかしげるところが多い。

改憲派よりも護憲派の欺瞞の方が根深い。

護憲派にも二つあって、ひとつは原理主義護憲派。こちらは「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という九条第二項を字義通り捉え、自衛隊日米安保は存在自体が違憲だという立場です。

 それに対して、修正主義的護憲派は、専守防衛であれば自衛隊も安保も合憲であるという立場で、基本的には歴代の内閣法制局の見解と同じです。

ここでの「原理主義護憲派」と「修正主義的護憲派」は、あくまで憲法解釈による分類のはずだ。

原理主義護憲派ならばいいのか、といえば、こちらはもっとおかしい。たとえば、次のような議論のどこが変かわかりますか?

自衛隊違憲だと主張し続けることは、専守防衛の枠に抑え込むのに政治的に有効だ〉

 これは実際に原理主義的護憲論者が展開している議論なのですが(愛敬浩二『改憲問題』ちくま新書など)、つまり実際に「非武装」が実現可能だなんて、彼ら自身信じていないわけです。専守防衛自衛隊違憲だけど必要だから、違憲の烙印を押し続けながら存在させよう、と。要するに、違憲状態の固定化を望んでいる。これの一体どこが護憲なのか。

困ったことに、井上教授が例示した議論は、それだけでは自衛隊の放棄が不可能だとも、必要としているようにも読めない。ひとつの制約が抑えることに有効という主張は、その抑えた現状のまま維持されるべきという意味とは限らない。「非武装」が実現できないという考えは、それが必要だという意味をもたない。人間社会から犯罪が亡くならないという考えは、人間社会に犯罪が必要だという意味をもたない。
井上教授の例示が下手なだけで、実際には原理主義的護憲論者が自衛隊日米安保を必要としているとしよう*1。しかし違憲の固定化を望んでいるとして、それが「護憲」でないというなら、より正しい分類を提唱するべきではないか。勝手に「原理主義護憲派」と分類しておいて、原理主義でないからと批判しているならば、それはまるで魔女裁判のようだ。


そもそも護憲論者の全てが自衛隊日米安保を必要としているのだろうか。それらを不要と主張する、より原理的な護憲派がいないことを示さなければ、井上教授の主張はなりたたない。
しかし井上教授は下記のように「原理主義護憲派」を批判する。

彼らの視点に完全に欠け落ちているのは、たとえば自衛隊員の立場ですよ。「お前らは違憲の存在で、法的には認知してやらないけれど、一朝事あらば命を張って我々を守れ」と言っているに等しい。

あくまで「原理主義護憲派」は現状の憲法への解釈で違憲と主張しているわけで、法的に認知するしないの主体ではないはずだろう。井上教授は、たとえば一票の格差違憲状態と認識する時は政治家の便宜を受けてはならない、などと主張するのだろうか。
それに「専守防衛の枠に抑え込む」ということは、つまり自衛隊の戦闘を抑制していたわけで、むしろ自衛隊員の命をも守ったという主張につながりうる。そういう視点も護憲派から欠け落ちていたというのだろうか*2


そして改憲派護憲派を批判した井上教授は、自身の憲法9条削除論を展開していく。

私は憲法改正の手続きを定めた九六条のハードルを下げる改正には反対です。時々の選挙の勝者が自分に都合のいいように簡単に憲法を変えられるなら、憲法は公正な政争のルールではなくなり、立憲民主政治の正統性そのものが崩壊します。

 こう考えていくと、安全保障のあり方は、憲法で先決せず、民主的プロセスのなかで討議すべき問題です。

井上教授の主張を延長すると、むしろ軍事力は憲法以上に「政争の具」にされうるから、それを安全保障の選択肢から除外するという考えかたもありそうだ。
それに9条削除論もまた、都合のいいように簡単に憲法を変えたがっているように思える。もしかして井上教授自身も削除が実現可能だとは信じていないのだろうか。

九条の存在は、この問題の国民的討議を回避させています。つまり、「九条の壁」の前に思考停止をしてしまう。現実には自衛隊という精強な軍隊を持ち、世界最大のアメリカとも軍事同盟を結びながら、自分たちは九条を守る平和主義者だという欺瞞に浸る。一方、現状に不満な改憲派も九条叩きで終わってしまい、改憲するだけで自主的でより安全な国防が実現するかのような幻想を抱いている。

日本が戦後長らく平和主義であり戦争に加担しなかったという主張は、たしかに欺瞞ではあるかもしれないが、それを批判することは憲法9条が存在する今からでもできるし、現実にされてきた。
9条があるままで安全保障の議論をすることを、今の日本国憲法はさまたげていない。たかだか「国民的討議」のために憲法を変えようとは、やはり井上教授こそ都合のいいように簡単に憲法を変えたがっているように思える。


さて、ここまで書いてきたことは個人的な疑問であって、あくまで批判ではない。学者が専門領域で提言したことを疑問に感じた時、その原因は疑問をもった側にある可能性が高いだろう。
しかし日本のめざすべき安全保障として井上教授の提示した論を読んで、さすがに驚かされた。

憲法は「“もし”戦力を保有するなら徴兵制を採用し、良心的拒否権を保障すべし」という条件付け制約を課すべきだとする点です。
 カントは有名な『恒久平和のために』で、平和のための条件のひとつに共和制であることを挙げました。つまり君主制では王が勝手に戦争を始め、そのコストを払うのは国民です。しかし、共和制ならば、戦争が起きたら兵士となって戦場に出る国民自身に決定権がある。自らコストを負うのだから、戦争に慎重になるはずだ、と。

イマヌエル・カント常備軍の廃止も提言していたはずだが、ここまではいい。戦争に対して慎重になるかどうかは別として*3、国民にひとしく武力をもたせるべきという思想はありうる。

 実際にベトナム戦争でのアメリカでは、徴兵制が大きな影響を与えました。戦争の激化とともに、一九六九年に法改正で徴兵制が強化され、マジョリティである白人中間層とその家族を含めて、より多くの市民が戦場に送られるにつれて、反戦運動も拡大激化したのです(新著で、当初は志願制だったとしたのは誤りで訂正します)。

たしかにベトナム戦争における反戦運動は徴兵対象の若者が熱心にとりくんでいたとされるが、だからといって徴兵制によってベトナム戦争終結したとまではいえまい。まず戦争の激化そのものが、反戦運動の拡大激化の理由だろう。だいたい開戦時から徴兵制があったことは井上教授自身が認めている。
複数の実例にひとつ誤りがあったのではなく、根拠として薄弱な実例がひとつだけ。しかも著作では根拠を誇張する方向に誤っていたという。護憲派改憲派を「欺瞞」「幻想」と批判し、そうした「思考停止」を回避しようとする井上教授がこれでは、9条削除による議論の深化に説得力はない。

徴兵制は絶対に無差別公平でなければなりません。富裕層だろうと、政治家の家族だろうと徴兵逃れは許されない。

絶対平和主義者の自己決定は尊重する。ただし、良心的拒否権の利己的濫用を抑止するために厳しい代替的役務を課す。

これを制度として実現可能だと井上教授は信じているのだろうか。
そもそも井上教授は1954年生まれで、国民皆兵制になったとしても前線に行く可能性は低いだろう。それで徴兵制を提言されても、まさに「一朝事あらば命を張って我々を守れ」という立場からの発言に聞こえてしまう。それも志願ではなく強制として。

*1:井上達夫『リベラルのことは嫌いでも・・・』を読んでしまった – 中東・イスラーム学の風姿花伝によると、『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください−−井上達夫法哲学入門』で「自衛隊と安保が提供してくれる防衛利益を享受しながら、その正当性を認知しない。認知しないから、その利益の享受を正当化する責任も果たさない」と主張しているとのこと。

*2:ワタミ批判者が、ノルマが厳しくなった社員への同情を批判理由に加えたら「ワタミそのものに反対だったのに、利用する始末」といわれなければならないの? - 法華狼の日記

*3:むしろ今の日本では、井上教授のように「自衛隊員の立場」を持ち出し、良心的兵役拒否者への非難が起こる可能性が高いと感じている。