法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

敵味方でしか判断できないの?

元寇に勝てたのは自然現象のおかげだから「神風」を歴史教科書には載せてはいけないといっていいのだろうか - 法華狼の日記へ応答があったので、再び。
よしなしごと - おおやにき*1

事実と、事実に対する人々の信憑という事実は別のものなのである。

それが私のエントリに対する何らかの反論になるとでも思っているのだろうか。「数々の証拠から当人が真摯にその主張をしていることは疑えない」とされる証言が、「事実の積み重ねの議論」に組み込まれえないとでも、おおや氏は思っているのだろうか。
前回エントリで指摘したのは、「極論」が「教科書」にどのような位置づけで掲載されうるか、という問題だ。おおや氏が勝手に持ち出した仮定において、教科書に掲載されるほどの事実性が確認できない仮定なのだと後づけで主張されても*2、比喩が下手なら使わなければいいのに、と返答するしかない。
おおや氏がするべきは、被害者証言をそのまま事実として歴史教科書でとりあつかうべしなどとApeman氏が主張した場面を指摘することであって、仮定をこねくりまわして被害者証言の特権性という藁人形を批判することではない。

(1) 理論的次元においては私が正しい、(2) 現実的次元においてその方が困るということは私にとって喜ばしい(可能性が高い)ということが判明してしまい、じゃあ私が遠慮する必要なんかどこにもねえじゃねえかということになったわけである。

最初に、「(1)」について。
おおや氏が理論的次元の話だけをしていたなら、その主張が主観的には成り立つかもしれない。しかし、おおや氏の「理論的次元」なるものは、歴史教科書の記述に政治が介入するべきでないという程度の主張だった。
おおや氏は、発端のエントリ*3において「主張する当人にとってはどれも「真実」である。」と語っていた。自説の一貫性を求めるならば、「極論」が仮定世界において事実である可能性があるわけだし、今回のエントリで例示したエピソードについても史実は不明という態度をとらなければならない。
たとえば、教科書にUFOアブダクトが一説として記述しないよう政治家が介入しようとした場合、おおや氏は介入を批判しなければ一貫性がない。おおや氏が発端のエントリで書いたのは、そういうことだろう。今さら「事実と、事実に対する人々の信憑という事実は別のもの」などと太字強調で主張されたことに、理論的次元の一貫性は感じられなかった。


次に、「(2)」について。
私が困るのは、証言の非対称性や個別具体的な状況を考慮せず同列にあつかう主張が公に発信されることだ。「事実の積み重ねの議論ではなくて被害者の特権性にすぐに飛びついている」ことを批判して事実の積み重ねを重要視するおおや氏と、建前としては利害が一致しているはず。もちろん、現実的次元においての正しさをおおや氏が目指さず、好んで誤謬を流したいというならば、第三者が止めることは難しい。
しかし私は前回エントリで「卓抜な一例」として最初に現実的次元の話をおおや氏が行っていたことを指摘した。つまり、現実的次元の話を取り下げるか、現実的次元の話が正しいことを証立てるべき、という話をしたのだ。


あと、どう考えても本題とは関係ないだろう態度問題についても応答しておく。

正直、この水準の反論を考えつくために5年費やしましたとか言われるとあまりの無能力さに涙が止まらなくなってしまうので昨日風呂に入っていて思いつきましたとか、その程度であってほしいと思っている。

おおや氏は返答に時間をかけていないので、「この水準」や「その程度」の反応しかできなくても許してほしいという意味だろうか。私は返答に何年費やしてもいいと思っているし、反応しないことも自由だと考えているよ。

抗議に押しかけたのに雨が降ってきたら中に入れてくれと関西電力に頼む人々というのが出現した話なども見るに、結局この種の人々のメンタリティは変わらないし次から次へと湧いて出るのかなあと思うところでもある。

意味がわからない。一部でも利害が対立する相手とは常に対立していなければならないとか、批判した相手に要望を行ってはならないとか、そういう主張としか文面からは読み取れない。
ならば、一つ理解できる。論点の把握もできずに「どうして私にあんたの利害を配慮する必要があるんだねと反問された瞬間にすべてが崩壊する」などと主張するわけだ、と納得した。
結局は敵味方でしか物事を判断できない、属人的な思考の持ち主という告白と考えてよろしいだろうか。


くり返すが、おおや氏がするべきは、被害者証言を特権的に事実として歴史教科書でとりあつかうようにとApeman氏が主張した場面を指摘することだ。
そして、おおや氏が理論的次元における正しさを自認したいならば、主張する当人にとってはどれも「真実」という態度を一貫してとってほしいところだ。

*1:引用は全て強調原文ママ

*2:「当人が真摯にその主張をしている」という仮定は、前回エントリで書いたように現実のツンデル像と異なっており、事実としてアブダクト被害が存在しえた仮定世界の歴史として読める。

*3:http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000467.html