法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『輪るピングドラム』24th station 愛してる

物語としては、わりと普通の落とし所だった。
いくつか掘り下げない部分を残しつつも、世界を改変した結果として家の前を通りすぎた子供二人に新たな立場を与え、きれいに物語を閉じた。
良かったのは、罰を受けなくてはいけないという自己嫌悪と、生きることが罰だという認識という要素を組み合わせて、多くの登場人物が生きることを望むようになった結末への理路。それと、初回で衝撃を与えられた脱衣バンクを、最終回において痛々しく描き直し、意味あいを変えさせてくれたこと。


しかし世界をより良く変えた代償として記憶が失われ、しかし変わる前の欠片を見つけて涙する場面は、複数の作品で見かけたもので、この作品の独自性までは感じられない。
自己犠牲を滑稽と紙一重で描くことも、タルコフスキー監督の映画『ノスタルジア』『サクリファイス』といった先行作品があり、これもやや既視感がある。
社会や、テロ団体や、親子といった大き目の共同体を否定しながら、小さな共同体を作ることだけが回答として提示されたところも、踏み込みの不足を感じた。サネトシを一人残して去っていったモモカについて考えれば、孤高の人生もできるならば良しという結論なのかもしれないが。
作画も良かったものの、基本的にはデザインと演出と会話劇で進行したこの作品らしく、単独で見せ場となるほどではなかった。


あと、運命を乗り換える言葉は、たとえばただの「いっしょに食べよう」だけだったりすれば、意外性と納得感があったかなあ、と思ったり。いや、しれっと以前の回で明示していたというだけでも良いのだが、どうも引っぱった割りには印象的な言葉ではなくて、いっそ肩透かしする方向へふりきれば良かったと思うのだ。
ただ、「いっしょに食べよう」だけではハウス食品のCMみたいな家族賛歌でしかなく、親の因果が子を呪ってきた物語の結末で小共同体賛美に転換した違和感を増大させかねない。だから「運命の果実を」という特異さを付与しておくことにも意味があると思わないでもない。


全体についての感想も書いておく。
ふりかえって考えると、整理すれば不要になる回や描写もあったとは思うが、おおむね毎回それなりの意味を持っていたと思うので、無駄とまではいえなかったと思う。構造としては同じような展開が続いたこともあったが、楽しめるだけの変化はつけられていた。
読み取れるテーマについては、明示された結論や描写が既存の作品にあるものばかりなので、深く掘り下げないと独自性は読み取れない。自己犠牲を正面から完全否定した『STAR DRIVER 輝きのタクト』のように新たな結論をはっきり見せてくれるかと期待していたので、その点は残念だった。
作画回もあったが、どちらかといえばアニメーター出身の演出家が映像を完全にコントロールするため自ら作画へ手を入れたという感が強く、動きだけで見せ場になったことはあまりない。どちらかというと原色が乱舞する背景美術が面白かったが、わりと背景が真っ白な場面の印象も強い。必要なところにだけ力を入れて、安普請で許されるところは徹底的に手を抜くところが、この作品がよく評されるのとは別の意味で舞台劇っぽかった。悪い意味ではなくね。