法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ハーモニー』伊藤計劃著

かつて「大災禍」によって多くの人命が無残に失われた近未来。2度と「大災禍」が起きないように、そして残された人的リソースを保つために、国境の垣根はとりのぞかれ、細分化した共同体「生府」によって構成される高度福祉社会が実現した。
他人はもちろん自分の心身でさえ傷つけることが倫理的な悪となり、暴力的な物語から古典的な嗜好品まで、刺激的な文化は幾重にもゾーニングされる。人体に埋め込まれた監視機械は身体情報をサーバーへ送り、対応する入念な医療マニュアルと分子レベルの医療技術で病気の多くが駆逐。高度福祉社会では心身の健康がプライバシーよりも優先される。風景も体型も理想にあわせて均一化され、刺激や雑音は社会から排除された。
これは、そんな優しいディストピアに違和感をいだいた少女達の物語……だと思っていた。


読了したのは相当前で、手元に持っていないので読み返せず、当時のメモを基に感想を書いておく。
作品の紹介文等から、臨死体験をへた少女達が形而上の思索を始めるインナースペースSFとばかり思いこんでいたのだが、意外と普通の近未来アクション小説に移行したので拍子抜けした。読んでいく間に楽しめるようにはなったものの、かなり期待していたところと違っていたのは確か。伊藤計劃作品を読むのは初めてだったこともあり、いささか面食らった。


さて、作品をSFたらしめるメインアイディアは、完璧な調和すなわちハーモニーとはいかなるものか、という思考実験にある。ユートピア小説の定石をふまえた高度福祉社会描写も、ハーモニーの入り口にすぎない。SFとしての「意識」の位置づけも、結末の調和された世界から逆算されたものだ。
この思考実験が物語として成り立つのは、最初の少女がいだいた違和感が、実際は全く逆の意味であったという真相のため。純粋すぎたのではなく、不充分な純粋さであったということ。その誤認によってかつて少女2人は同調し、成長した後には衝突させ、物語に葛藤を生んだ。
そして結末まで読んで思った。この物語が結論として示す調和された人間とは、ある種の「悟り」に他ならない。「悟り」という言葉が一回も登場していないことが不思議なくらいだった。


ちなみに新書版で読んだのだが、表紙が一種のミスディレクションとなっていて、こちらの意外性は好印象だった。
少女2人の愛憎に満ちた関係が時を超えてSF的なガジェットで肥大化して反復されるわけだが、実際には最初の心中に際して3人目の少女が存在していた。その少女は大人になった後、大状況が始まる序盤の一場面で退場する。
その退場だけでも物語を構成する素材としては充分に使いきったといえるだろうが、その存在を踏み台にして大状況が語られて成人した少女達が無視しているのは難に感じた。しかし最後の最後で3人目の存在がきちんと言及され、メインで動いていた2人が決別した要因であるかのように語られる。いわば語られざる脇役こそが、少女2人を助けつつ罰した。
調和されたディストピアを、あたかも群集の1人にすぎないような、序盤で喪われた少女がうがつ。小説としての構成、キャラクター関係そのものがディストピアを否定する。その一刺しが心に染みた。