9月から話題になっている北村氏*1による映画初見感想企画だが、今度は7月に出された『猿の惑星』の感想もあらためて一部で批判の対象になっているようだ。
人種差別も反進化論も批判しているのに…やっぱり昔のSF映画? 『猿の惑星』を初めて見た – OHTABOOKSTAND
言語でコミュニケーションを取れないことが作品の中で重要になったり、あるいは翻訳機を使ってコミュニケーションを成立させたりするんです。この言語の設定がけっこう英語中心的であることも昔のSFだなぁという感じですね。
なお、すでに古典的で有名な真相とはいえ、以下でネタバレしていることを注意しておく。
発端は、北村氏の感想を意識しつつ、特に批判的でもない江口聡氏による反応のようだ*2。
まあ映画には「そこはつっこまない約束」みたいなのはありますわよね。『猿の惑星』でみんな英語しゃべってるらしいのとか。
— 江口X(本名江口某) (@eguchi2023) 2024年9月11日
まあ映画には「そこはつっこまない約束」みたいなのはありますわよね。『猿の惑星』でみんな英語しゃべってるらしいのとか。
江口氏は「そこはつっこまない約束」と『猿の惑星』の英語を解釈したらしいが、後述のように北村氏は『猿の惑星』固有の問題としても猿が英語を話すことを指摘していた。
しかしid:uncorrelated氏の説明をうけて*3、なぜか江口氏は自身の解釈ではなく、北村氏の感想に疑問をもってしまったようだ。
猿の惑星の言葉が英語なのは、人類の文化を継承した猿たちなので意外では無いというか、むしろ伏線です。
— uncorrelated (@uncorrelated) 2024年9月11日
猿の惑星の言葉が英語なのは、人類の文化を継承した猿たちなので意外では無いというか、むしろ伏線です。
まあ猿の惑星の英語が伏線というのは(見てないけど)そうなんでようが、そうするといったいあの論評はなんであるかとかそういう話に……
— 江口X(本名江口某) (@eguchi2023) 2024年9月11日
まあ猿の惑星の英語が伏線というのは(見てないけど)そうなんでようが、そうするといったいあの論評はなんであるかとかそういう話に……
そしてuncorrelated氏は、『猿の惑星』で猿が英語をつかう描写は伏線であり、そのトリックに北村氏が気づいていないというエントリを出した。
映画「猿の惑星」で、猿が英語を話していた理由
「今回は映画のことなので、本気でやっています」と宣言していたが、読解能力に疑念が出てくる作品理解となっている。映画が公開されてから半世紀。多くの人が指摘してきたであろうことを、指摘したい。
猿含めてみんなが英語を話している時点で無粋な突っ込みかもしれないんですが…英語の話をしたので、ついでに無粋な突っ込みを続けると「言語の設定」も重要になることがあります…言語でコミュニケーションを取れないことが作品の中で重要になったり…この言語の設定がけっこう英語中心的であることも昔のSFだなぁという感じですね。
と、映画「猿の惑星」において猿が英語を話していることの重要性が分かっていない。
映画「猿の惑星」の世界では、猿たちは人類の文化を継承したから英語を話している。英語でなくてスペイン語などでも良さそうだが、自由の女神像が倒れている場所なので、北米である。 むしろ、英語以外を話していたら話の展開にあわない。
原作では独自言語を話していることになっているそうだが、映画版では英語を話すことになり、そして話の結末も原作と異なるものになった。だから、製作者も猿が英語を話と言うことがどういう事なのかを考えて作っているわけで、この設定は重要である。
北村紗衣氏は「ミステリ好き」を自認しているのだが、映画「猿の惑星」の受け手に事実を誤認させると言う意味の叙述トリックに引っかかってしまっているし、最後まで見ても叙述トリックであることにも気づいていない。
uncorrelated氏による『猿の惑星』の解釈は、独立した感想としては成立しているとは思う。しかし北村氏への批判としては根本的に誤っている*4。
先に北村氏の感想を読んだだろう江口氏も、uncorrelated氏の主張が北村氏への批判にはならないことに気づいていないようだ。
単純な問題として、北村氏の「猿含めてみんなが英語を話している時点で無粋な突っ込み」という記述は、猿が独自の言語をつかわないことが考証としておかしいという批判ではない。
uncorrelated氏の引用より前の流れから読んでいけば、惑星が地球という真相に気づかない登場人物がおかしいという批判の流れで、猿が英語をつかう描写を指摘している。
この映画は最後に、テイラーたちが不時着した惑星は実は地球だったということに気が付くんですけど、気づきませんか!? 「この惑星は地球なんじゃないか」くらい考えません?
最初から地球だと気づいていたらお話が進まないのでしょうがないんだろうと思うんですけど、2024年にこの種の映画を作るとしたら、行き先を地球に設定していたけど計器が地球を指していないとか、気が付かない理由を最初に言ったりすると思うんですよ。わかんないですけど。
――地球よりも空気が悪いとかですかね。不時着してすぐに土の成分を調べて、炭水化物の痕跡について話したりはしていましたね。
まあ猿含めてみんなが英語を話している時点で無粋な突っ込みかもしれないんですが。
つまり北村氏は惑星と地球の英語が共通していることと結末が無関係と考えているわけではない。むしろ、お約束として無視しないと真相に気づかない登場人物の問題が大きくなるという話をしている。
もしも猿が英語をつかうことが伏線だとするなら、あからさますぎて現在から見ると伏線として機能していないという話にもなる。効果をあげるまでは伏して気づかせないからこそ伏線なのだ。
そしてuncorrelated氏の引用では章をまたいでいることすら略されているが、北村氏は「英語の話をしたので、ついでに無粋な突っ込みを続けると」以降はいったん『猿の惑星』の話題からはなれて、SF全般における言語の歴史を語っている。
SFでは80年代くらいから言語の設定がもうちょっと複雑になっていったと思います。テレビドラマシリーズの『スタートレック』も、実在する言語学者が作品内の言語を作っていました。最近だと『メッセージ』も、世界各地に突然現れた宇宙船に乗っている生物の言語を理解しようとする物語ですよね。
言語でコミュニケーションを取れないことが作品の中で重要になったり、あるいは翻訳機を使ってコミュニケーションを成立させたりするんです。この言語の設定がけっこう英語中心的であることも昔のSFだなぁという感じですね。
私が2年くらい前に初代シリーズを1作目から視聴した時も、似たようなことを思った。そもそもディスコミュニケーションでサスペンスをもりあげる作品であり、主人公に真相を気づかせないことで成立する結末だ。
『猿の惑星』 - 法華狼の日記
主人公が真相に気づかない説得力をあげるためにも、猿に英語を話させるべきではなく、翻訳機などをつかうべきではないかとは思った。当時の映像作品は異星人も地球の言葉を話すことがお約束として許されていたが、原作の猿はSFらしく違う言語を話すという。
故障した翻訳機を修理する困難などを描けば、よりディスコミュニケーションを描けたはず。この作品の影響下にある作品、たとえば短編漫画『ミノタウロスの皿』などでは翻訳機が登場するからこそ、現在に視聴すると違和感が残った。
原作とは結末が異なるが、同じように猿の言語を独自に設定しても映画は成立するだろう。主人公にも観客にも気づきにくく、それでいて印象にのこる共通項を考えればいい。
ちなみに叙述トリックとして再構成するなら、北村氏が「最初から地球だと気づいていたらお話が進まない」と考えている部分こそ改変の余地があるかもしれない。登場人物は気づいていることが見る側は気づかない、叙述によって情報を隠されていた読者が登場人物の視点を知った時の衝撃こそが典型的な叙述トリックだろう。
たとえば、主人公は惑星が地球と気づいているが仲間をうしなって猿との対峙を優先するので地球について語る機会がなくなり、観客には主人公の認識がわからない。変貌した地球で残された人間の文明をさがそうとする主人公について観客は主人公がただ理想郷をさがしていると誤認する。そして人類文明の崩壊を知って心が折れる主人公を見た観客は、これまでの描写すべてが人類の破滅を意味していたことを知って衝撃をうける、といった構成が考えられる。
*2:これ以前に独立した同種の批判があった可能性はあるが、現在につながる流れとしては見つからなかった。はてなブックマークでそれ以前の反応をたしかめると、id:ROYGB氏やid:katouk氏が言語のくだりに言及して私見をのべているが、英語描写が伏線であるという主張ではない。[B! SF] 人種差別も反進化論も批判しているのに…やっぱり昔のSF映画? 『猿の惑星』を初めて見た[第2回] あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評
*3:直接的なリプライではないので、異なるタイムラインにもとづく反応なのかもしれないが。
*4:本題ではないが、「ウラシマ効果はアニメ『トップをねらえ!』(1988年)からの言葉」という記述も『ドラえもん』の一読者として違和感しかない。もっと古くからつかわれている、ありふれた言葉のはずだろう。ためしに国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索をつかってみると、1960年の書籍において定着した言葉としてつかわれている。それでも円盤は飛ぶ : 日本における空飛ぶ円盤 - 国立国会図書館デジタルコレクション