「運命日記」が世界を変える力を本当に持っていた、より正確には異なる世界へ乗り換える力を持っていた、という話。地面の巨大路線図で乗り換えを表現し、その大きくも薄っぺらな世界観に小さな子供がいる絵柄で不信感や不安感を煽っていたのが、実に映像表現としてよろしかった。
もしかしたら作品の舞台となっている世界そのものも、我々の住む世界から運命日記で乗り換えたものかもしれない。一方で個人的な好みをいうと、運命日記は友達を助けるためのハッタリにすぎず、変化したのは世界ではなくインナースペースだった、といった真相があっても面白いか。
前回の水泳が伏線として回収されたとか、温泉旅館という舞台が卓球描写で回収されたとか、その辺の馬鹿馬鹿しさも実に良かった。
最後に、今回の重要なモチーフになっているタワーは巨大彫像と呼ぶべきデザインで、独裁者のそれをイメージしやすい。「タワー」という台詞から受けとるほどには性的な印象はなかった。
その差異を解釈してみるなら、タワーが表現しているのは、娘にとって世界全てだった父の巨大な重圧だけ。娘を削るノミこそが男性器の隠喩*1。やっている内に気分が良くなるなどという身勝手な解釈を許さない、傷しか与えないちっぽけな男性の象徴、といったところか*2。