法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

異世界シャワーをめぐる論争を見ていて、必然性や呼称の軽視にもやもやする

小説であれば、それを形成する文字ひとつひとつ、改行の位置から文字のひらきかたまで、必然性をもって配置されるべきだという理想論もあるはずだ。
ディテールをくわしく書きこんだり、それを作品世界の構築に奉仕させることだけが必然性ではない。本筋に関係なければ徹底的に省略することも必然性ある描写をするための要件だ。
時には、単独では完成度の高い描写であっても、他の描写との整合性を考えた時、克明に表現するべきだったか悩ましい場合もある。最近に見たひとつの映画も、最も魅力的な場面が物語の整合性を下げていた。
『FLU 運命の36時間』 - 法華狼の日記

スケールが大きくなっていく物語を、きちんと映像として支えられているところもすごい。首都ソウルのベッドタウン盆唐の協力をえたことで大規模な撮影がおこなえたこともあるだろうが、とにかくVFXの技術力が高くて、ひとつの都市に恐怖が蔓延していく情景を高い説得力で見せられていた

ただ残念ながら、隔離地域や収容人数の規模に比べて、探し人の発見が容易すぎる場面が多かった。数十万人が隔離された空間的スケールを見事に表現できているからこそ、物語の都合が目立った感がある。同じ脚本でも日本映画として作ったならば、せいぜい数百人規模の一区画くらいのスケール感になり、すぐ探し人にたどりついても不自然には感じなかったろう。

この映画の事例は、すべての描写にドラマとして必然性をもたせようとした結果、偶然が多用されて不自然になったという問題でもある。必然性は作為と紙一重なのだ。
また、不自然とまでいかなくても、必然性を示す描写がテンポを壊してしまったり、あくまで脇筋なのに本筋より悪目立ちしてしまうこともある。


ちなみに論争になっている『JKハルは異世界で娼婦になった』は話題になったころ序盤だけ読んで中断しているが、とりあえず導入はうまかったと思っている。
http://novel18.syosetu.com/n4381dp/1/

 あたしがこっちの世界に来てまず一番ウケたのが避妊具が草ってことで、「やべ、草生える」って爆笑したら、「生えませんよ」とマダムは真顔で言った。

「スキネ草も知らないの? もうかれこれ30年も前に錬成されてこの辺じゃどこの薬草屋にも売ってるけど。ずいぶん田舎から出てきたのねえ」

これは、必然性ある描写という意味では、WEB小説として完璧に近い導入だと思う。
最初の一文で異世界に来た説明を処理して、そこで主人公が何をするかという本筋までにおわせる。定番となった描写に字数を消費しない良さがある。
主人公のボキャブラリーや興味関心の対象もわかる。主人公の興味関心のありようから、たぶん異世界文明の解明や構築という方向で期待するのは難しいだろう、とも予想できる。
会話対象のマダムの台詞から、作者が一人称主人公を相対化できているし、異文明へそれなりの敬意をもっているという安心感もある。おそらくスキンからネーミングしていることから、この物語における固有名詞のこだわりのラインもメタなレベルでわかる。
そうしたことを説明口調でつめこむのではなく、ギャグ形式におりまぜていることから、ずいぶん書きなれた作者だ、とは思った。ただ、そのうまさで書かれた内容は、あまり好みではなさそうだったが。


そうした描写の必然性のひとつとして、呼称の選択というものもある。必ずしも間違いとはいえなくても、雰囲気を壊す呼称というものはある。
たとえば『JKハルは異世界で娼婦になった』の主人公が異世界の正確な呼称を使いたがるかというと、たぶんシャワーに機能が近いなら「シャワー」と呼ぶだろうな、という印象はある。私個人としては、たとえば鉛管の先から落ちる冷たい水で汚れをこすりとる、といった描写が好みだが、それを一人称で表現しようとすれば主人公の性格が変わることはさけられない。
そうした雰囲気づくりという意味で気になった作品というと、第一次世界大戦から第二次世界大戦くらいの技術レベルの文明を舞台とした『とある飛空士への追憶』に、露出度の高い水着の呼称として「ビキニ」が登場して面食らった記憶がある。多くの地名や固有技術は架空の名称を徹底的に設定していただけに、一種の翻訳として解釈できる*1とは考えつつも、違和感をおさえられなかった。物語世界が遠未来という可能性がにおわされるようになってからも、その一部分だけ「ビキニ」という単語が使われたことの違和感は残った。他の場面では「水着」と呼んでいたからだ。露出度の高さを表現するためであっても、たとえば「紐水着」などではいけなかったのか*2
「ビキニ」にかぎらず、翻訳として理解できる単語にできるだけ置きかえてほしいという気分はある。そうしないなら、そうしないだけの必然性が読みとれるようであってほしい。わざわざ「芋」ではなく「ジャガイモ」や「サツマイモ」と表現する時、その理由はなぜか。それぞれの食味や植生が物語において意味があるのか。逆に異世界が現実と大きくは違わないという伏線になっているのか……


もちろん、こうした必然性や呼称の雰囲気づくりは、関連しつつも総合的に評価されるものであって、ひとつの描写で作品の位置づけを決められるものではあまりない。
それを理解した上で、象徴的な描写を事例として示すことはあるし、ひとつの描写にこだわることが無意味だとも思わないが。

*1:その観点から、こちらの匿名記事に対しては、異世界言語を使わないのであれば完全に日本語訳することこそ異世界らしさに一貫性がある、と考える。https://anond.hatelabo.jp/20171227114221

*2:そもそも劇中の状況ならば、下着のたぐいで水浴びする展開が自然だったようにも思う。