法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

群集の有村 2ちゃん運営の差別

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 昨日、新月お茶の会の例会からの帰り、渋谷駅で東横線コンコースへ向かって階段を降りていると、こんな紙が頭上に貼ってあるのに気づいた。

それは「華人和 朝鮮狗 禁止入國」という文字を見せつけながら微笑む少女の絵であった。
この落書きは話題になったものの、落書きの存在を指摘するだけにとどめたid:y_arim氏へいくつか批判もあった。
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そして今朝、改めてこの張り紙に対してどういう行動を起こすべきか考えた。
1)JR東日本のしかるべき部署に電話
2)渋谷駅の駅員に直談判
3)自ら塗りつぶす
 1)はどういう対応をとられるかわからないうえ、何らかの措置が採られるとしてもかなり遅くなるだろう。2)は一番無難な策だが、まあangmar氏の言うとおり「お仕事」であり、なんのメッセージ性も持たない。なにより面白くない。

そしてy_arim氏は文字を塗りつぶすことを決めた。


あえて全方位にブーメランを投げさせてもらうなら、自己顕示欲に支えられたり周囲に扇動された可能性に留意することも、ひとつの見識だとは思う。自己顕示欲や扇動によって行動していた場合、それらを差別落書きすることで満たせる環境において逆の行動をとる可能性も、ないではない。たとえば個人の英雄化を防ぐため、行動に対しては「当然のこと」という評価をくだすにとどめ、賞賛をさけるべきだったかもしれない。
しかし落書きに対し、それを報じること、それを消すこと、消した者の内面、報じられたことの効果、消されたことの効果、消去への賞賛がもたらす効果は、それぞれ異なる問題だろう。
落書きを塗りつぶした個人が、もし自己顕示欲を満たそうとして自作自演を行ったのだとしよう。だとしても、その行為が誰にもとがめられなかったことに違いはない。

「犯人は、あの緊迫した瞬間を選んで、わざと新聞記者を狙撃した。それに刺激されて軍隊が発砲すれば、外務省前は無数の屍体の山ができる。新聞記者の屍体は、そのなかに埋もれてしまい、殺人事件が存在したことさえ気づかれないで終わる……」
笠井潔『群集の悪魔 デュパン第四の事件』より

小説に書かれた暗殺劇が存在しなくても、パリ革命は起こったのだ。自作自演だったとしても、落書きを先んじて消去する者はあらわれなかったのだ。


落書きを広めることは逆効果とする主張があった。落書きの差別性を批判することで、対抗にあたいする意味を生んでしまうのだ、と。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811/p1

ちなみにネット上でもこの考えを採用している場所がある。『2ちゃんねる』運営は、喧伝の意図を持って大量にコピー&ペーストされる投稿を「無意味な文字列」と呼ぶ。一律に「無意味な文字列」と呼ぶことで意味を無効化する手続きだ。

差別表現に対して取るべき対処という具体例が2ちゃんねる運営では、全く賛同する気にならない……むしろ、それでは駄目だという結論しか考えられない。
2ちゃんねるのような匿名掲示板は、マジョリティがマジョリティであり続けるために顔を持たない群集となる。はてなブックマークTwitterであれば、主張が個別に切り分けられ、仮名なりに各個の責任が問われるだろう。群集という漠然とした存在は解体されるわけだ。
いずれにせよマジョリティと同一化した群衆は赤信号を渡ることができるし、マイノリティに向けられた落書きを認識しないでいられる……しかしy_arim氏が認識するよりも前から、そしてy_arim氏が報告した後にも、落書きは存在していたはずだ。


マジョリティが認識しなければ、マイノリティも認識しないでいられたとでもThsc氏はいうのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811/p2

断言する。その「ヘイトスピーチ」を広めたのは、あなたや、ブックマークで凱歌を揚げているあなたがたである。

なるほど、それは主観的に正しいのだろう。きっと落書きを認識しないマジョリティは、落書きを認識するマイノリティの存在も認識しないでいられるのだから。
「発見」され、塗りつぶされ、誰かに撤去されるまでの長い間……渋谷駅において落書きは存在し続けたのだ。うつむいた群集が歩む頭上にかかげられたまま。駅員が撤去することもなく、無名の者が隠滅することもなく、巧みに無効化する者も現れず。終わった後に「べき論」を主張した者も、何一つ有効な手立てを打てていなかった。
もし渋谷駅にはられたのが、酸鼻きわまる死体写真であればどうだったろう。あるいは、全裸の女性写真であればどうだったろう。……もちろん仮定の話に意味はない。自己顕示欲あふれる個人が行動するまで、群集は何ら対処できなかったという現実があるだけだ。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811/p1

それを「落書き」と扱うことで、取り合うべき内容もないと烙印を押し、メッセージを無効化できる。これが犯人にとってはいちばん嫌なのだ。だから、差別「落書き」はただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去されるべきなのだ。

しかし落書きは現実に、撤去も消去もされていなかった。管理者が優先的に撤去や消去しようと判断する「意味」を、「落書き」が持っていなかったからだろう。
匿名掲示板にあふれる差別喧伝がそうであるように、差別主義も排外主義も社会にあふれ、精神を鈍麻させ続ける。その切っ先が自らに向かわない限りは「意味」のないものとして、群集は意識しないでいられるのだ。

一方の者がまず――町の名でも、河の名でも、州の名でも、国の名でも――つまり、いろんな色のついたごちゃごちゃした地図の表面にあるどんな名でも言って――相手に捜させるんだ。この遊びの初心者はたいがい、いちばん細かい字で書いてある名を言って相手を困らせようとする。けれども玄人(くろうと)は、大きな字で地図の端から端までひろがっているような名を選ぶのだ。そういう文字は、あまり大きすぎる字で書いてある往来の看板や貼札(びら)と同じように、あまり明瞭すぎるためにかえって人眼につかない。そしてこの物理的の見落しは、知能が、あまりひどく、あまり明白にわかりきっていすぎる事がらを気づかずに過すという精神的の不注意と、ちょうど類似しているものなんだ。
エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳 盗まれた手紙 THE PURLOINED LETTERより