法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

オタクは現実を知らない自覚があればそれでいい

現実主義と現場主義は少し違うが、まとめでも「現実的」という表現がされており、あまり区別されていないようなので今回は同じような意味としておく。
「軍オタは冷静で現実的で偏りがない」という軍オタ自身による幻想 - Togetter

軍事マニアはただそこにあるものに関心を寄せ、思想的に偏りがなく、冷静で現実的とかいう論調って少なくとも十年前からネットで見かけるが、「国防軍はシロ、悪いのはナチ」神話に近いアレがあるよねという。
M_A_Suslov
2010-12-19 00:02:33

まあごく一部、確かに透徹したマニアというのは確かにいて、そういう人には敬服するけどな。
M_A_Suslov
2010-12-19 00:03:48

「透徹したマニア」に敬服することは自然だが、そうした軍事オタクでも思想的に偏り現実的でないことがあると注意しておきたい。
軍事の専門家として発言したいならば本来、政治や経済、法律その他の関連する様々な領域に知見を持たなければならない。それも「ただそこにあるものに関心を寄せ」というように雑多な知識を集めるのではなく、それらの領域で先行して積み重ねられた学問への目配りが必要だ。現実のパワーポリティクスが、軍事の知見だけで説明できるはずがない。
そこであえて軍事マニアや軍事オタクとだけ称されるのであれば、あくまで一部の知見を基礎にして考えている、つまり偏っていると称されているようなものなのだ、本来ならば。
自身の偏りを表明しながら主張しているのであれば、何ら誤りはない。もし、そうした自覚のあるオタクを偏りがないと評価するのであれば、それは評価する側の問題といえるかもしれない。


軍事オタクが政治オタクを兼任することはあるが、軍事オタクと政治オタクは同一ではないし、それでいいのだ。
アニメでたとえるなら、声優オタクがアニメーターにくわしい必要はないし、作画オタクが声優の名前をおぼえる必要もないようなもの。どちらのオタクも、アニメ作品の様々な愉しみから一部を切り取って評価していることを意味する呼称だ。
作画オタクが映像をほめているからといって、声優オタクが声の演技に期待することはありえない。もちろん声の演技と絵の動きを合わせるリップシンク技術みたいに、評価すべき領域が重なる場合もある。だが逆にスタジオジブリ作品のように、映像へ力を入れた近年の作品は芸能人声優を広報に利用しようとして、声の演技に難が感じられることも少なくない。
いうまでもなく、それぞれのオタクは自身の興味が作品全体を評価する基準ではないことを自覚しているはずだ。もしアニメは語源からして作画だけ重要と主張する作画オタクがいるなら、『BIRTH』*1でも見せておけばいい。


そもそもマニアやオタク一般が現実主義なわけがない。あいまいな場合もあるが、基本的にオタクは消費者であり、趣味者であって、現場を知らない。「ただそこにあるものに関心を寄せ」といった興味の持ち方では、象牙の塔の学問的な蓄積からも離れてしまいやすい。
逆にいえば、オタクであると表明することは素人という自認なのだから、興味のおもむくまま知識を集めて発言しても、強く信用されないかわりに責任を負わなくてすむ。本来それでいいのだ。
たとえば作画オタクが集まるアニメサロン板の作画スレで、情報公開後に反省会が開かれる流れは風物詩といっていい*2。オタクは素人という自覚があるからこそ、予想が外れたと素直に認めて、反省会を即座に開くことができる。
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もちろん、かつて軍事オタクどころか一般人よりも難がある航空幕僚長もいたように、素人が専門家に優越することも例外として存在する。学問の積み重ねを飛ばして興味のおもむくまま学ぶオタクならば、そういう例外も多く出会えるかもしれない。そうした例外を作るために努力することは正しいと思う。ただそれはあくまで例外であって、がんばっても歴史学者郷土史研究家が協力することがある程度*3という自覚は持っておくべきだと思う。


なお、現場で苦労している専門家に、賞賛であっても見当違いな評価が不快感を持たれる可能性も、念頭に置くべきだろうと思う。
たとえば、北久保弘之監督が余裕のない状況で作品を完成させるため「砂漠のど真ん中、つまり、背景に建物を描かなくて良い話」という考えで物語の舞台を選択したことに対し、アニメ雑誌の元編集長が見当違いな賞賛をしたという話がある。
アニメ監督・北久保弘之氏のアニメ残ギャグ物語─OVAアニメJOJOの奇妙な冒険製作秘話 - Togetter*4

ようやっとシナリオに入れる段階で、集英社で会議が開かれた。出席者は俺を含めて五人。当時、ジャンプ編集長だったマシリト氏、確か既に廃刊になったアニメ誌「アニメック」元編集長だった某氏、荒木飛呂彦さんのデビューからジョジョの第三部まで長きに渡り荒木さんの担当編集だったK氏、野村P、そして俺だ。この会議で一言も喋らなかったのは野村Pとマシリト氏の二名だった。野村Pが喋らないのは解るとして、マシリト氏は多分、この企画の決裁者である。こういう場で一言も話さない事から推理して、概ね 2パターンが考えられる。極めて頭が良いか、とことん臆病者つまりチキンのどちらかだ。

まぁ、言ってもジャンプ編集長である。多分、前者であろう。そこで元アニメックの某氏が口を開いた。「いや〜、この水のスタンド使いンドゥール編を選んだ所(ンドゥールの能力は水を自在に操る)に北久保さんのアニメ作家としての自信が感じられますネ!アニメーションで水を描かくのは以下略」…基本、アニメーションの制作者「以外の」人間がどんな知ったかぶりをするか?に興味は無い。所詮、実制作者じゃ無い奴がどんなヨイショをしようが、ソレで作品のクオリティーは「上がらない」。

一方で、このくらいの「ヨイショ」は許してほしいと思うし、アニメ雑誌関係者などになれば賞賛することも一つの仕事と思うが。

*1:伝説のアニメーター金田伊功が監督したオリジナルビデオ作品だが、作画が良くても物語や演出が悪ければ駄作になる象徴とされる。制作体制も良くなかったらしく、急に尺が伸ばされたりもして、金田監督にとっても不本意な出来であったらしい。

*2:たしか『映画ドラえもん のび太の恐竜2006』に大平晋也が参加しているという話や、『電脳コイル』終盤の戦闘を「りょーちも」が担当したという話は、作画スレから広まった記憶がある……この辺は薄い作画オタクの一人として全く他人事ではない。

*3:ちょっと微妙なたとえかもしれない。

*4:北久保監督のツイートから次のツイートへ話が続いていることを示す「〜」を省略し、改行もしなかった。個々の発言時間等も省略した。