法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

ラジオを聞くのを忘れていたが

http://d.hatena.ne.jp/dora_m/20100226/1267213361

俺が聞いていたのはラジオ終盤も終盤、最後の1時間くらいなんだけど、id:mattuneさんは面白さをもっと言語化してよー、みたいな流れだったと思う。その流れで作画オタはもっと作画の面白さを気持ちいい以外で表現すべき→「タイムライン系」と「演算系」というのが流行ったよね、というお話に一瞬なったと思う。ログ取ってなくてごめんなさいね。俺の記憶半分で書くので、間違ってたら言ってくださいね。

そんな理由から俺は「演算系」か「タイムライン系」かって言うものは、出来上がったものに対して付けることになるのかなーなんてコメントした。ある人は、「演算系」か「タイムライン系」かというのはプロセスに対してつくもんでしょ、と返答してきた。別のある人は、だから「系」という曖昧な言葉で言うしかないよね、と。

プロセスを重視するなら「観察系」「脳内系」、アウトプットを重視するなら「虚構系」「現実系」といったところでどうかな。ダメ?
そもそも考えてみれば、造語自体が読者の理解を阻害するという問題がある。できるだけ一般に使われる平易な言葉で批評するか、せめて他ジャンルの批評で膾炙した言葉を応用するのが次善ではある*1。今回の焦点になっている造語は、わりと一般的な単語を「〜系」という形でくくっているので、まだ感覚的に理解しやすそうではあるが……


思ったことをメモ - まっつねのアニメとか作画とか

・あるアニメ(例えば劇場版クラナド)の魅力が分からない人がいたとして、
その人に対して「劇場版クラナドの面白さを説得する」ということに
あまり意味を感じない。
それよりは、もっと別の見てないアニメを見てほしいし、
俺もそんな時間に見てないアニメを見たい。

実在する作品だけでなく作品が目指したであろう理想を空想したりする私と違い、mattune氏は、基本的に受け手には個々の作品自体を楽しんでほしいんだよなあ。
それはそれで正しいと思うし、たとえば私もTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』放映以後の解釈論争に辟易した当時、『JUNE』から出た渚カオル単独書籍を好ましく思ったりしたくらいだが、それは同時に子供向けアニメを神格化する思想の源流でもあったはず*2
送り手と受け手が入れ替わりつつ切磋琢磨することで、極北化して多くの受け手を振り落としてしまいつつも、創作というものは進化してきた。もちろん進化の袋小路に入ったまま打ち捨てられた技術や趣向も少なくないが、そういう失敗も重ねてこそ、先鋭化した技術が広まる機会も増え、やがて受け手が把握しやすくなるものだろう。
前後の文脈を読まないでもわかる作品だけでなく、前後の文脈も踏まえてこそわかる作品もある。解説を読んで再読してようやく理解するという楽しみもある。特に、時代的な評価が下された作品というものもある。確かに「説得」は意味がなくても、「説明」には意味があると思う。パロディなどで、同時代の出来事を解説されないと意味がわからない描写もアニメには多いしね。


そしてここで、前に書こうとした内容を思い出した。
よくできた娯楽作品の多くが、受け手が関心ある導入から、予想もつかない経過を迎えるものである。いってみれば、作品を読み解く文脈を、作品自体が最初に解説しているわけ。「通俗性と反俗性の融合」というより、「通俗性から導入する反俗性」といった感じかな。大西巨人の言葉を借りて「俗情との結託、そして決別」と呼んでもいい。宮崎駿監督の表現を借りると「低い入口から高い出口へ」。
もちろん、通俗性だけに満ちた、何の意外性もない娯楽作品というのも、それはそれで楽しい時間をすごせると思う。しかしそういう時間潰しでしかない作品*3をそれと注意せず、ベタにテーマを読んでしまうと、悪しき現状肯定にも繋がるんじゃないかなあ、とも。
ただ逆に、社会的な影響を模索した描写があればいいというものでもない。政治的な正しさを表現することに汲々としただけの作品も、それはそれで一部の俗情と結託しただけではないかと思う時はある。
そういう難しさを乗り越え、古典的な物語を娯楽として提示しながら、娯楽性をはみ出た部分に魅力があるアニメ作品としては、ちょうど最近エントリを書いた下記作品に感銘を受けた。
『交響詩篇エウレカセブン : ポケットが虹でいっぱい』 - 法華狼の日記*4
通俗な主人公が反俗化し、反俗な敵が通俗化する展開ととらえれば、エントリで疑問を書いた結末問題の、一つの解釈となるかな……

*1:もともとアニメ用語自体、レイアウトという名前の作業手順があったり、動画という役職があったり、いろいろと誤解を招く要素が多い。

*2:http://d.hatena.ne.jp/mattune/20100212/1265902351

*3:失礼。しかし本音でもある。

*4:比べてみると、映画『新約Zガンダム』はひどかったと痛感する。一例として、主人公と対立関係にある強化人間のロザミアとフォウは、TV版の展開も考慮に入れ、どちらか同一人物として整理すれば、ずっと内容を圧縮できたはずだ。映画におけるロザミアの扱いは、第一部の活躍が印象的なだけに今も不満が残る。初監督作品の再構成映画『ラーゼフォン多元変奏曲』でも評価されたように、京田知己監督は再構成職人としての得がたい才能があるようだ。あまり発揮できる場はないし、発揮できる場が多くても困るが。