法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『映画「靖国」上映中止をめぐる大議論』を読む

2008年6月23日初版、創出版から発行された新書サイズの一冊。ドキュメンタリー映画靖国 YASUKUNI』をめぐり、様々な映像関係者、報道関係者、知識人が文章を寄せている。
作品への様々な攻撃から自主規制まではもちろん、映画内容の評価、映画配給形態への批判まで、幅広い議論が手堅くまとまっている。
別媒体で発表された情報や指摘が半分をしめており、問題を熱心に追っていた者にとって新味は少ないかもしれないが*1、一読には値すると思うし再読にも耐える。薄い小冊子なので、以下に書いた紹介を読まずとも、興味があれば実際に目を通してほしい。


まず興味深いのが、上映自粛に至った経緯への多角的な指摘。様々な映画人が経験から上映自粛に至った経緯を検証しており、それぞれ単独でも面白いのに、読み合わせることで表現することの困難さや対処法が立体的に描き出される。
最初に、月刊誌『創』編集長の篠田博之が、自粛の経緯を説明しながら、配給したアルゴ・ピクチャーズの岡田裕社長から発言を引く*2

 そうやって問題が大きくなるにつれて映画館から予想外の動きが出た。3月15日、新宿のシネコン「バルト9」が突如、上映中止の意向を伝えてきたのだった。何かあった時の混乱を、激情を経営する上層部が心配したらしい。そして3月20日には、上映予定だった別の映画館「銀座シネパトス」に右翼の青年が街宣車で抗議を行った。続いて22日にも街宣車が訪れ、その後も右翼らしき人物が訪れた。
 20日、ついに銀座シネパトスも上映中止を決定。連鎖反応的に自粛ムードが拡大した。それから5日間で、4館で予定されていた東京での上映が全て中止になってしまったのだった。
「銀座シネパトスの上映中止が大きかったですね。あそこは天皇について描いたソクーロフの『太陽』も上映したし、経験豊かで、その程度で中止を決める映画館ではなかったのです。それまで映画館同士で大作を協議してきた過程でも、いわばリード役でしたから」(岡田社長)

この後、篠田編集長は映画館への「電凸」攻撃があったことも記している。
さらに、アジア映画を主にやっているエスピーオー傘下ということで期待されていた「シネマート六本木」が、激しい折衝を経て上映中止となり、当初の公開予定日4月12日に映画を見ることはかなわなくなった*3
さらに4月10日に開かれた合同会見で、ジャーナリスト田原総一朗氏は、現場の映画館が悪いわけではないと指摘していた*4

 それから今、映画館が悪いということになっていますが、これは違う。現場の映画館主と配給会社は話し合いができていて、館主はOKだと、やると言っているんです。ではなぜ彼らが中止にせざるを得なかったのかというと、映画館の上の、さらに上の会社――名前は言えませんが、みんな知っている会社ですよ――そこの役員が「よせ」と言うから、やむを得ず中止にしてしまったということなのです。

映画館を責めるのは間違いで、日本の構造的なところを見ていかなければなりません。

ここまでは記憶されている人も多いだろう。しかし、以前から困難な題材に取り組んでいる映画監督からは、『靖国』側が経験不足なのではないかという意見も出ていた。
森達也監督は、稲田議員や右翼のお粗末さを批判した後、配給会社の映画館選択も誤っていたのではないかと指摘する*5

 次に劇場。あっさりと上映中止にしてしまった。もちろんこれもお粗末です。でもある意味で仕方がない。都内の劇場に限っていえば、普段は娯楽作品を上映している劇場ばかりです。親会社があって自主的に決定できないところばかり。だから配給会社のアルゴ・ピクチャーズに言いたい。なぜこんな劇場を上映館に選定したのか(会場笑)。都内でいえば、たとえばユーロスペースイメージフォーラムポレポレ東中野など、これまでいくつもの問題作を上映してきた劇場は他にいくらでもあります。

田原氏が語ったことと同じ状況を映画上映側の視点で指摘している。それぞれの立場で妥当性を持つ意見だと思う。
そして、森監督は、話題性を導くことが狙いだったとすればすごいと続け、会場の笑いを誘ったようだ。
若松考二監督は、映画『南京1937』を配給した自身の経験*6を語る前ふりで、具体的に映画館の立地問題を指摘した*7

ちょうどベルリン映画祭で「靖国」の李監督に会ったので、「上映中止になるかもしれないぞ」と言ったんです。東映系の映画館「バルト9」は、街宣車でグルグル回るにはちょうどいいんですよ。だから何かあったら上映をやめるだろうし、そうなったらほかもバタバタ行くよ、と。その後、香港でもう一度李監督に会ったら、「その通りになりました」って言ってましたがね。

さらに若松監督は自身が作った映画『実録・連合赤軍』が文化庁から補助金をもらえなかったことを引きつつ、表現の自由を主張するためには金を貰うべきではないと語った*8。ちなみに、森監督と同様に、モデルにした連合赤軍から何か言われれば「スキャンダルになってお客がますます入る」という発言もしている*9
原一男監督は、映画『ゆきゆきて、神軍』をめぐる経験を語った最後に、現在の上映形態全般へ疑義をていした*10

――一連の騒動の中で、「映画館は表現の場なのか」という議論もありますね。
原 70年代に僕らが映画をつくり始めたときは「自主製作・自主上映」と言っていました。ミニシアターというのがまだあまりなかった時代は、自分たちがつくる映画は自分たちの手で見せていく、というのが理にかなった、一番自由な方法だというのがありました。

そして原監督は『ゆきゆきて、神軍』のヒットでドキュメンタリーも商業的な結果を残せるよう状況が変わったといい、しかし同時にあまり変わっていないとも主張する。

今はドキュメンタリー映画も配給側がある程度やってくれる状況になり、それはそれでよいことではあるのですが、本質的なところではドキュメンタリーをめぐる環境は、今でもそんなに甘いものではないと思います。

各映画監督の危機意識と対処法が興味深い。騒動が大きくなった一因には、対する李監督や配給会社の経験不足もあったかもしれないようだ。この騒動の経験を、李監督個人だけでなく、映画界全体で次に活かしてほしいところだ。


上記で複数の映画監督が語る、事件の宣伝利用については、右翼からも似たような主張がされている*11
4月18日にロフトプラスワンで行われた民族派活動向け上映会で、一水会木村三浩氏、防共新聞社の福田邦宏氏、さらに会場からも、右翼の行動で「プレミア」をつけてしまったことの反省が語られている。特に面白いのが木村発言だ*12

まずは木村氏。「この映画は、左翼勢力の衰退をよく表している」という。靖国からの分祀を求める台湾人女性が社務所に詰め寄るシーンや、靖国神社の集会に若者が「左翼の鉄砲弾として」飛び込むシーンにそれが見て取れるというのだ。
「そんな映画に、逆に“プレミア”をつけてしまったことが癪でなりません。このような上映中止騒ぎにならなければ、どれだけの人が1800円も払ってまで、劇場に足を運んだでしょうか」

「台湾人女性」が左翼勢力とどう結びつくのか聞いてみたいところだ。しばらく続いている『NHKスペシャル』騒動との違いはどこにあるのか。漠然とした「左翼勢力」というくくりもどこから出てきた発想だろうか。
そして福田氏の「マスコミのバカ騒ぎに乗って」という表現*13もそうだが、責任転嫁としか思えない口調が興味深い。同じ民族派一水会鈴木邦男氏が発した「すべての責任は僕にあります」という言葉とは責任の感じ方が大違いだ*14。他の活動家も多くがマスコミに責任をなすりつける発言を行い、堂々たる態度とは感じられない。大日本朱光会の阿形充規氏から出た発言にいたっては、被害妄想としか思えなかった*15

「今われわれは政治資金の規制やディーゼル車規制などで、完全に手をもぎとられた状態。街宣車なんかで抗議活動するような状況でない折に、あたかも右翼が大挙して押し掛けてきたような報道をしたということは、何か裏に、大きな弾圧の力が動いているのではないか」

実際に街宣活動をかけた右翼が存在したのだから、正直いって陰謀論としか思えない。そもそも『週刊新潮』が最初に記事でとりあげ騒動が広がったのであって、右翼的な発言の場は充分に与えられていた。それこそ自分達を売り込む努力をされたらどうだろうか。
実際に自らが映画制作へ乗り出すという発言も飛び出たようだが、あまりに見方が甘すぎて、つい笑ってしまった。まず正氣塾の中尾征秀郎氏が助成金問題について「こんな映画なら300万円もかからない」というと会場から拍手が上がったという*16。冗談半分だろうが、民族革新会議の山口申氏は「今度はわれわれが、文化庁から倍の1500万くらいの額をもらって、“親靖国”の映画を作りましょうよ」といって会場から笑いを誘った*17
機材を買うなり借りなりるして、10年間もかけフィルムを回し続ける必要があるが、確かに生活や配給を考えなければ撮れないことはないかもしれない。現在はデジタルカメラとパソコンでそれなりの撮影はできるだろう。「南京の真実」と称して東京裁判を主題にした映画を作り、セット等で湯水のように制作費を浪費して、そのためかCS局を倒産させてしまったどこかの映画監督に提案してみてはどうだろうか。支援団体名義で意見広告を出せるくらいに資金に余裕があるようだし。1500万円くらいでは技術や才能を買うことはできないだろうが。
ただし、ここで注記しておくが、ロフトプラスワンという特殊な居酒屋における放言という擁護はしておきたい。右翼ばかり集まって閉鎖された環境で暴走した失言もあるだろう。
実際の発言でも、阿形氏は、「しかしこの映画は、最初から最後まで映してくれています」*18と、テレビ等に比べて長回しが多くナレーションすらないことを嬉しく感じるむねを語っている。山口氏は南京で首を切り落とすスライドに対し「しかし、中国人が靖国というテーマで撮るならば、そうならざるをえないと思うんです」*19と理解を示した。
そしてイベントをレポートした『創』編集部の村上麻子は、記事の最後を以下のように結んでいる*20

「最後に主催者として平野から。これだけの人たちが一堂に会して討論したということが、今までの民族派の歴史にあったでしょうか? 僕は嬉しくて嬉しくてたまらない」
 との平野氏の言葉でお開きに。
 狭い出口は人の波で埋まり、並んで待っている間、参加者の男性のひと群れが、
「あーあ、くだらねえ。こんなクソ映画のために3時間も無駄にしたよ」
「はは、ほんとほんと」
 としゃべっているのが聞こえた。でも、そうこぼす表情も心なしか、スッキリして見えた。



さておき、右翼の無知ぶりは、若松監督の経験談でも明らかにされている*21。映画『南京1937』騒動についての、先述したロフトプラスワン集会での出来事だ。

話をしてても、もうヤジと怒号ですよ。彼らは「南京はせいぜい20万人くらいの人口なのに、30万人虐殺なんてあるか。30万人殺すのは大変なことだ」と言う。それに対して僕は「30万人だったかどうかはともかく、一人でも虐殺は虐殺だ。戦争とか虐殺ってそういうことじゃないか」って言ったんですよ。それを3時間ぐらいやった。

少なくとも1998年以降の話だろう。当時すでに学問上の決着がついており、この右翼の発言も周回遅れだった。
人口20万人だから30万人も殺せないという稚拙な詭弁は現在も用いられているが、もちろん考慮するに値しない代物にすぎない。まず人口20万人と主張する側は確定的な資料を提示できないでいる。そもそも30万人とは軍民を合わせた数である。民間人の人口が真に20万人だったとしても、それだけで30万人説を否定できない。30万人説の妥当性とは別個に、論理的な破綻をきたしているわけだ。
問題はこうした誤解や無知が右翼以外にも見受けられること。特にひどいのが、鈴木邦雄氏と対談した宮台真司氏による発言だ*22

刀匠の刈谷さんが「取材の時に聞いていた話と違う」と言っています。リベラル側は国際戦犯法廷問題で「放送されるという話だったのに放送されないとは何事か」と期待権を主張する。その理屈で戦犯法廷の主催側を応援するなら刈谷さんも応援するべきです。自称リベラルは正論を語る格好をしつつ、内容に依存した肩入れをしているだけ。

そのような「リベラル」がどこにいるのだろうか。森監督も別の章で指摘しているが*23、表現に対して政治家が圧力をかけた事件という共通項がある。圧力対象が取材者か被取材者かの違いにすぎない。
しかも刀匠は最終的に上映中止は望まなかった。ここで重要なのが『AERA』記者の証言。どうやら、刀匠は当初映画が完成していると知らなかったため変更ができると思っていたようだ。そして記者から変更不能と教えられ、削除願いを取り下げたという。同じ日に意味が異なる発言が出た謎はこのためだったらしい*24
「自称右も自称左も行動原理が同じ」*25といった発言が象徴するように、宮台氏は自称中立の陥穽におちいっているとしか思えない。


また、宮台氏の映画作品に対する評価も個人的には疑問符がつく。
人々の描写が「単調」だから「駄作」と宮台氏はいう*26

靖国イメージも単調だけど、刈谷さんや台湾原住民の描き方も単調です。まるで「刀鍛冶としての人生が全て」「靖国に反対する人生が全て」みたいな描かれ方。実際には人生は万華鏡です。靖国も万華鏡です。それを取り込めないなら駄作です。先日も僕は靖国神社で夜桜能を観て心から堪能しました。

これは悪い意味でポストモダンな印象の鑑賞態度だと思う。たとえるなら、小説やノンフィクションよりも情報が羅列されただけの電話帳をありがたがるような……*27
少なくとも、刀匠は緊張した殺陣を見せる場面もあれば、職人らしい鍛冶の場面もあり、休息している場面もある。印象としては、むしろ休息している場面が最も長かったくらいだ。
映画批評としては、別章における原監督の、資料映像引用に対する「なんでこんな稚拙なやり方をわざわざするんだろう」*28という指摘に納得がいった。正直な話、終盤のイメージカット羅列は映画で唯一眠気をおぼえる場面だった。そしてこの羅列を宮台氏が逆に賞賛していたことも、悪い意味でポストモダンな鑑賞態度と感じた一因だ。
そもそも、李監督は靖国神社をそれと知らずに桜見物を行っていた過去がある。しばらく後に南京事件否定論イベントのようなものを神社で見て、衝撃を受けたことが映画『靖国』の制作に繋がった。一見して他の神社と変わらない風景もあると知る監督が、あえて8月15日の靖国神社を切り取った作品という読み取りができないものか。しかも狂騒の8月15日でさえ、穏やかに参っているらしい中年女性達や、靖国の立場に賛同する外国人といった目につかない光景を写し、映画で見られる光景は断片にすぎないことを自覚的に表現していると思う。むしろドキュメンタリーは主観である以上、客観を装って情報を羅列するより、あえて主観であることを宣言するべきではないだろうか、とすら考えている。
宮台氏に対する鈴木氏の下記反論こそ、ドキュメンタリーの本質をすくいとっているのではないだろうか*29

でも、僕は客観的に公平に描いたのがドキュメンタリーだとは思わない。それでは面白くないからと監督が8月15日に軍服を着てる人たちを描いているんですが、それは監督の勝手だし、いいと思うんです。「いやこれだけじゃない。靖国神社にはもっと別の面があるんだ」というのは、あの映画をきっかけに話せばいいし、日本の監督が作ればいいんですよ。



巻末に採録された鼎談では、ロシア映画『太陽』に出演した経験を、俳優の佐野史郎氏が語っている*30。映画『靖国』と直接の関係はないが、天皇に対する踏み込んだ見方や、自主規制のありかた、さらには映画制作の裏話という観点からも興味深い。
特に、佐野氏が天皇へ違和感をいだいた中学生時代、東京オリンピック開会式の記憶が面白い*31

 テレビ中継で天皇陛下が署名するのに万年筆をねじったんですよ。普通に抜けばいいキャップを昔の型のようにずっと回しててね。それがテレビに映ってたんです。開会宣言とかも、とにかくちぐはぐで手際が悪い。生中継だったと記憶しますが、それだからでしょうか? 「これから、大会の、開催を、宣言、します」。なんだか会場がシーンとしてね。拍手はあったと思うんだけど。
 その後だったかな? 沈黙に耐えられなくなってか、ある人が「天皇陛下、バンザーイ!」って突然大声で叫んで手を挙げ始めた。それにつられて会場の3分の1くらいがバンザイを始めて、おお、すげえなあと(笑)。その時にすごい違和感があったんですよ。当時中学生でしたが、戦争の話と同じだ……って思って。

必ずしも佐野氏は批判をしているのではない。同時に自身の母方4代前までが出雲大社の血筋ということを明かし、歳をとるほど自分のルーツとして天照大神などが身近に感じられてくるとも語る。
佐野氏が語る天皇をめぐる緊張と弛緩は、映画『靖国』の結末部分を思い起こさせる。刈谷氏の「……物言わんが……」に感じた微笑ましさ*32と同種の、良い意味で軽さをもって天皇を扱っているよう感じた。
その滑稽なありようを無理やりにたてまつる人々の姿は、公開されるより前から『靖国』を批判した人々や、自主規制を行った映画館にも通じている。さらには、靖国神社の周辺に感じるものと通底しているだろう。
靖国』は、完成後の様々な批判や騒動すら内包した面白いドキュメンタリー映画であった。自主規制論争が再燃している昨今、より強く思う。

*1:そもそも、一年近く経って紹介エントリを書く人間に問題があるわけだが。

*2:12頁。

*3:他の劇場が上映中止になった後でも大阪の第七芸術劇場は5月公開予定を堅持していた。

*4:36頁。

*5:53頁。4月14日MIC/JCJ主催の集会で行った講演より。

*6:右翼がロフトプラスワンで開いた集会に、単身で乗り込んだ武勇伝を語った。

*7:111頁。

*8:113頁。ただし、「でも本当は貰えればその方が良かったわけでしょ?」と問われると、【そりゃあ、貰った方が助かりますよ。もっと宣伝出来ただろうし。何で「連合赤軍」がダメで「靖国」がいいんだよって言いたいですよ(笑)。】と答えている。

*9:112頁。

*10:125頁。

*11:62頁。

*12:64頁。引用時に「癪」のフリガナ「しゃく」を省略。

*13:65頁。

*14:鈴木氏は、広告等で協力したという背景が特殊という面はある。また、鈴木氏によると、木村氏へ李監督を紹介すると、けっこう意気投合した様子だったという。83頁。

*15:67頁。ただし阿形氏は65頁で「民族派の主義や主張」を「この映画は、最初から最後まで映してくれています」と比較的に映画を評価している。しかし「一般の人が、映画を観て、『民族派というのは、しっかりした理念で行動しているのだな』と目を向けてくれるのではないか」という考えは、やはり甘すぎると思うが。

*16:64頁。

*17:68頁。

*18:65頁。

*19:66頁

*20:68頁。

*21:112頁。

*22:73頁。

*23:94頁。

*24:24頁。

*25:78頁。

*26:74頁。

*27:あくまで印象に基づいた比喩であり、実際のポストモダンとは異なるという批判は甘受する。

*28:124頁。

*29:75頁。

*30:他に上野千鶴子つくばみらい市講演中止事件の、上野氏自身による解説も採録されている。

*31:133頁。

*32:私が見た回では、あちこちの観客席から吹き出す声が聞こえた。