法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

結局は、どんな結局を描くかということかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090510/1241933356

冷笑できるような距離感を持っていない。むしろ現実の残酷さや矮小さに敏感すぎて、それに激しく絶望してる、というのが正しいだろう。その絶望がもう何もかも無に帰してしまいたい、とストレートに現れれば『イデオン』になるし、いやそれじゃダメだ、と葛藤すれば、破滅させようとする者と食い止めようとする者の対決―『逆襲のシャア』になる、ということではないか。

富野監督は、御存知の通り様々な発言が相互に矛盾しており、前エントリ*1では内面の推測を棚上げして、作品で表現された描写について「冷笑」と評させてもらった。冷笑的に距離を取っているのではなく、距離が近すぎて物語を料理できないでいる、という意見にはなるほどと思わされた。


結末でうやむやにしてしまうため、提示された障害が意味をなさなくなっているという指摘も同意する。
出崎監督の特徴で書いたように、現実の残酷さに敗北する物語でも、それはそれで良いのだ。克明に敗北の過程を描くような作品は、けして嫌いではない*2。むしろ、好んでいるからこそ、過程の粗雑さが目につくという気分があるかもしれない。
「みんな死んでおしまい!」とか、「ヒロインの目がつぶれておしまい!」とか、それは物語が終わってないよと言いたい。どうして結末を放り投げてしまうのだろうかと問いたい。
結末の放棄も、一回や二回なら意外な展開として印象に残るかもしれないが*3、何度も続けば予想通りの超展開でしかなくなる。やがて物語が提示した障害を「どうせ結論で放り投げるのだろ」と斜めに見てしまうようになる。
この放り投げる態度は、作品自体に対しても同様だろう。発表当初は自信満々だが、作り終わるとすぐに自作を徹底的にけなすようになる。自作に厳しい視線を持つことは悪くないのだが、実のところは作っている途中で飽きただけではないかと感じる。実際、映画『新約Zガンダム』は三部作が公開される度に物語の繋がりが適当になり、新作映像も必要性が感じられなくなっていった。


また、この結末を放り投げる態度は、富野インタビューに対するuedaryo氏の疑問とも繋がってくるだろう。
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20081228/1230444502

「アニメの中の架空の話ではなく、リアリズムで天誅はありなんじゃないかと思う。天誅を下せる立場に立てたらいいな、とも思ってます」*1

しかし、インタビュー後半では一転、オウム事件について「アニメのセル画の主張をリアリズムでやろうとしたっていうのは、これはもう幼さ以外の何物でもないと断じられる」と分裂的なことを言ってる。それとも自分なら「あり」で他人がやったら「幼さ」なのか。

この二重基準は、要するに、時間をかけた解決を選択できないため生まれたものだろう。嫌いな存在を説得したり和解しようとせず、一足飛びに「天誅」で排除してしまおうとする。その意味では、作品と作者の態度が一貫しているといえる。
もちろん、「現実」的に考えれば、問題が必ず解決できるとは限らない。論理が通じない人間は存在するのだし、個人が社会全体と対立して戦い抜くのは難しい。その点で、『機動戦士ZZガンダム』『キングゲイナー』)のように大きな共同体から離れていく結末*4は悪いものではない。考えようによっては、物語創作の世界に身を投じて居場所を得た富野監督自身とも重なる結論だ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20090507/1241824179

*2:正直、自作小説はそのような展開ばかりだ。

*3:だから『伝説巨神イデオン』の結末は、現在より敗北の過程を克明に描いていることもあり、全く好みではないものの、物語として有効だったと思っている。

*4:正確にいうと、『キングゲイナー』は離れていく過程を描いた物語。終盤まで比較的に楽しめたが、やはり結末はオーバースキルという特殊能力で無理やり障害を乗り越えてしまい、竜頭蛇尾に終わったと感じている。