法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『リベルタスの寓話』島田荘司著

まだあらゆるものが未発達だった中世、この地域に存在し得た高度な理念が、近代に向けて人が成長するにつれ、民族愛という正義と道徳により、逆説的に動物以下の卑しさにと転落する仕組みも、本書のふたつの中編によって、浮き彫りにしてみたかった。
(後書きより)

ユーゴスラビアの民族紛争を題材とした中編として、表題作と『クロアチア人の手』を収録。どちらも御手洗潔が探偵をつとめるが、事件の舞台はユーゴスラビアと日本に別れ、ワトソン役も異なる趣向。事件も完全に独立しており、どちらから読んでも全く問題ない。実際、作品発表は『クロアチア人の手』が先行していた。
民族浄化の描写で泣かせつつも、物語は単純な悲劇にとどまらない。書かれるのは、加害と被害が混沌とする世界の悪夢であり、聖者と愚者をわかつ個人の矜持すら易々と砕く現実だ。憎悪の連鎖を止めなくてはならない、その良識を叫び実行に移す者が憎悪の連鎖に組み込まれていく。
最初に提示されるのが表面をなぞっただけでない厚みある理想だけに、それがすでに朽ちていたと明かされる真相は意外で、本格ミステリとしての面白さと社会派ミステリとしての深みが両立していた。


以下、ややネタバレをふくむ個別の感想。
『リベルタスの寓話』は、見立て殺人のため創作された作中伝承が素晴らしい。かつて「アドリア海の宝石」とたたえられたクロアチアの先進的な民主主義社会時代を背景とし、さらにベネチアで存在した民主制度を設定に取り入れ、歴史を超えて燦然と輝く自由の都市国家ドゥブロブニクを描き出す。掌編ながら起伏に富んだ展開で、社会の底辺に置かれた主人公の苦しみ、理想の美しさ、自由が侵略で踏みにじられる痛みが描かれる……むろん、悲劇として泣かせるだけでは評価しない。当初の時代説明から違和感ある描写が中盤から増えてきて、齟齬を感じるようになってからの急転直下な結末に、相当に衝撃を受けた。自己目的化した理念の堕落するさまには、自らを省みざるをえない。
ミステリ本編も島田作品らしくなく、ミスディレクションのためだけの余計な話がほとんどない。三つの視点が並行して展開し、メタミステリとして絶妙とまではいかないが、島田作品には珍しい趣向で幻惑させてくれる。
血液型関係は、後書きで書かれているように医学系ミステリにくわしいと予想するのは難しくなく、消えた臓器の行方も予想範囲もしくは推理困難で、猟奇殺人の真相は個別に見るとつらい。合わせ技でなんとか見られる内容になっている程度。
日本において現実味のないリアルマネートレードは、設定の妙によりリアリティを感じさせたので悪くないが、帯で最初からネタを明かしているのがもったいない。
クロアチア人の手』は、やはりユーゴスラビアにおける民族浄化の一断片を描く冒頭がいい。鳥になれずとも蝙蝠になろうとした中年男の姿が鮮烈な印象を残す。だからこそ、個人の小さな善意すら虐殺を構成する要素となる時代が、ごく普通の人間がいだく憎悪が、痛々しくてたまらない。独立して読むと戦時の逸話としてありきたりではあるものの、作家島田荘司の筆力を感じさせる一編。印象的でありながら、作品全体の構成を崩すほどではない短さなのも好感が持てる。
本編も、日本におけるクロアチア人の密室殺人事件や、謎の爆死事件を扱っており、本格趣味を充分に満たす。バカミスではあるもののトリックは独自性あるし、手がかりは充分に散りばめられており、祖国から遠く離れた日本だからこそ成り立つトリックでもある。いくらワトソン役とはいえ石岡一巳の鈍さにはいらつくが、御手洗潔が珍しく手順をふまえた推理を広げ、論理の楽しみが適度に味わえた。まず佳作と呼べるだろう。
冒頭から本編へ自然に繋がっているのは驚いたが、これは普段の島田作品にミスディレクションのためだけの無意味な逸話が多すぎるためで、わざわざ誉めるべきではないか。
結末の空しさには、だから一人称だったのか、だから老人の物語になったのか、と得心した。『リベルタスの寓話』作中伝承とはまた違った視点から、理念が老いて朽ちる姿を描いている。


作品そのものからはなれた感想では、似た構成の中編を連続して読んだことで、あまり言及されることのない島田荘司の技巧性に気づいた。
表題作では死体から内臓を取り除いた理由、『クロアチア人の手』では死体を水槽に浸けた理由……それぞれメインとなる謎は、ミステリの古典的なパターンである。しかし同時に特殊な科学知識を使用したトリック、つまり島田荘司が提唱するところの「21世紀本格」でもある。
特殊な科学知識を要するトリックは、読者への手がかりを示しづらく、ミステリとしてアンフェアな印象を与えることが多い。それでいて捜査側は一般人より専門知識を得る機会が多いのだから、名探偵が警察に先んじる展開が不自然になりやすい。しかし、古典的なパターンとの合わせ技にするとどうだろう……ミステリを読み慣れた者なら中途までの真相が推理できるからアンフェアな印象は軽減され、警察がミステリ的なひねりのため真実へたどりつけないという説明にもなる。
つまり、古典的なパターンを補助線あるいは踏み台として、特殊知識を要するトリックにありがちな不条理感を薄めているのだ。もちろん、特殊な知識が必要であることは明白だから、強引な真相になっているとは依然として多くの読者が指摘するところだろう。しかしただ不条理と評されるのではなく「豪腕」と評されるのは、特殊知識にいたる前振りを作品へ組み込んでいるおかげではないか、と気づかされた。
なおかつ、古典的なパターンは特殊知識を用いたトリックを隠すミスディレクションにもなっている。全てが充分に奏効しているとはいわないが、『クロアチア人の手』で死体を損壊した動機に二つ目があること等は感心した。