法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー(3)』

雑誌『メフィスト』で連載していた対談企画の完結編。テーマに合わせた短編やショートショートを選んで丸ごと掲載することで、ミステリでは難しい真相に言及したレビューがおこなえる。

綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー(3)

綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー(3)

珍品を多く紹介する1巻目*1から、いったん変化球をおりまぜた2巻目*2をへて、本格ミステリの妙味に満ちた短編を紹介していく。


まずは新本格が始まる直前、パズラーが見くだされていた時期に女流作家が発表した2作品。
栗本薫『袋小路の死神』は、暴走族をぬけようとしていた男が、密室状況の袋小路で何者かに刺殺された謎が、名探偵のところに持ちこまれる。
ドラマを排した会話劇で、安楽椅子探偵に徹した語り口が面白い。推理は厳密ではないし、密室トリックそのものは大したことがないし、隠された動機も気づくことはできたが、犯人をさりげなく隠そうという技巧が全体にこらされていて、無駄のないパズルを解く愉しみが味わえる。それでいて社会派テーマへの目配せも無理なく入っている。
山村美紗『虹への疾走』は、高速道路をめぐるアリバイ崩し。これはまったく感心できなかった。アリバイ構築をひとつのトリックにたよりながら、古い作品ということを考慮してもトリックに新鮮さをまったく感じない。しかもそのトリックに使われる要素の伏線がまったくなく、それでいて劇中人物が調べれば一目瞭然な要素だ。
真相がわかった後でタイトルが示す情景が絵になることはわかるし、作者がA級ライセンス保持者ゆえの実体験ではないかと対談で指摘されて印象が少し変わりはしたが……


次の章は人体切断トリックがテーマ。奇妙な論理という裏テーマもある。
G.K.チェスタトン『秘密の庭』は、パーティーから男が消えたり死体が発見されたりする短編。古めかしい文体の直木三十五訳版が青空文庫に収録されている*3。どこかの短編集に収録されていたのを読んだかもしれないが、内容は忘れていた。
ブラウン神父が謎を解く作品としてはトリックもプロットも突出した作品ではないし、思考の奇妙さも他の作品に比べると驚きが少ない。首を切る方法もトリックというにはフィクション性の高いスキルにたよっていてアンフェア。そもそも首切りトリックが現代の捜査技術では成立しないことも対談で指摘されるが、むしろそうした時代の変化を指摘するために選ばれたような印象がある。
山田風太郎『赤い靴』は、中国古典をパロディした連作短編ミステリ『妖異金瓶梅』の1話目。妻が夫の愛を競いあう一夫多妻の家で、謎の殺人事件が起きて、足が切断されて足フェチの使用人が姿を消す。
若いころに図書館で借りて序盤だけを読んで返した記憶があるが、内容はまったく記憶していなかった。とはいえ事件の根幹をなす奇妙な論理には見当がついたので、無意識に頭に残っていたのだと思う。その謎解きに中国の古い文化の知識が必要ではあるが、会話のなかに文化の片鱗がうかがえるし、それなりに有名な文化ではあるので印象はフェア。
回廊の見取り図が人間移動の絵解きで重要になっているところも興味深い。描写を挿絵に依存する手法がミステリジャンルではラノベに先行しているわけだ。


次の章は、怪奇描写とミステリの融合をテーマ。
倉阪鬼一郎『頭のなかの鐘』は、自己評価と他者評価の落差に苦しんだ男の顛末。善良な周囲のお世辞を真に受けて、とりかえしがつかなくなるさまで、共感性羞恥におそわれる。
しかし結末は陰惨だが、怖さというより乾いた笑いを生みだす。推理小説的に深読みされうる出来事を倒叙形式で描いたともいえるが、良くも悪くもブラックなパロディ小説以上のものではない。
島田荘司『発狂する重役』は、女性を凌辱しながら出世した男が過去に復讐される恐怖を描く。いかにも島田作品らしく非現実的な奇想を現実的に解釈する作品でありつつ、ミソジニーな印象がないところが読みやすい。
これは短編集で既読で、物語も真相も記憶していた。しかし改めて読むと、女性の幽霊を成立させる要素が、かなり大胆に記述されていることに驚かされる。幽霊の正体も、それが消えた謎も、ほぼ解答に直結する説明があるのに、小説のうまさが本筋の恐怖をもりあげて目くらましされてしまう。


最後の章は、今は古典となったミステリのルールと、理想といっていい実作の紹介。
ロナルド・A.ノックス「探偵小説十戒ヴァン・ダイン推理小説作法の二十則」ディクスン・カー「四つの黄金律」は、どれも有名だが無意味さが指摘されがちなルールの紹介。現在でも納得できるルールもあれば、当時でも無意味だったろうルールもある。対談のふたりが指摘するように、そのようなルールを意識しながらどのように逸脱するかのメルクマールと考えるべきなのだろう。
鮎川哲也『薔薇荘殺人事件』は、若者たちを支援する富豪の邸宅で起きた、ふたつの殺人事件の謎を解く。短編というには頁数が多いが、稚気にあふれ機知にとんだパズル小説として読みごたえがあった。
いくつものトリックが濃密にしかけられているが、すべてが真犯人につながる手がかりと目くらましで構成されていて、散漫な印象はない。対談で指摘されているように、3つの古典的なルールを守りながら、ちゃんと意外性を演出できていることがすごい。どこまでも軽妙な娯楽なのに、事件とは直接の関係がない結末の出来事によって、「偽物」というテーマが立ちあがったところが小説としても好印象。
ただ現代からすると、とある隠された身体的特徴を謎解きに使うあたりは、現実の症状とは必ずしも一致しない印象を受けた。この身体的特徴をミステリに用いること自体が今ではすたれている印象があり、この作品で時代の限界を感じさせる数少ない部分といえるだろうか。


最後に後書きで、直前に起こった東日本大震災を受けて、語りえない者の代弁者として名探偵がいるという推理小説の意義を語っていたのが印象に残った。
ミステリのパズル的な限界を、物語の意義としてとらえなおす試みは、いずれ実作で読んでみたいところだし、もし許されるならば書いてみたいところだ。