夫がいないなかで一人娘リーガンをそだてている女優クリスは、自宅に奇妙な物音がすることが気になっていた。しかし屋根裏をしらべてもネズミなどは見つからない。
やがてリーガンが暴れまわるようになり、クリスはさまざまな検査をさせるが医学的な異変は見つからない。一方、クリスと懇意にしていた映画監督バークが謎の転落死をとげる……
ウィリアム・フリードキン監督による、1973年の米国映画。アカデミー賞に多数ノミネートされ、大ヒットしたホラー映画。
監督が亡くなったので*1、購入したまま放置していたDVDで初視聴。まずはディレクターズカット版よりも超常現象が少ないらしい劇場公開版を選んだ。
冒頭の遺跡発掘で一面にはたらく人々が映る情景などはスケール感があったし、群衆があつまっている石段をとおりすぎる場面など異変の暗示描写は良かった。
悪魔に憑依された少女の姿や超常現象も、無理をしていないので現代から見ても粗を感じない。悪魔祓いの結末など、カメラワークに驚くカットも多い。
しかし予想より即物的なホラー映画で、期待したわりには好みではなかった。
悪魔祓いすることになるカラス神父は神秘的なキャラクターではなく、むしろ超常現象に懐疑的なキャラクターらしいとは知っていた。しかし、そもそも「エクソシスト」的な立場ではなかった。冒頭で遺跡を発掘して悪魔の像を目撃し、終盤で経験者として悪魔祓いを主導するのは老齢のメリン神父だ。
カラス神父は精神医学をおさめていて、現代では悪魔祓いなどありえないと考えている。死んだ母親への負い目も感じている。それが超常現象を体験することで、キリスト教的な自己犠牲の精神にめざめる……というプロットにはなっているが、予想よりもさまざまな異変が早々に物理現象として映像化されてしまう。
思春期の少女が起こしたのか超常的な存在が起こしたのか、異変の原因が途中まで判然としないかと思いきや、ベッドが激しく動くだけで母親や観客にとって超常現象と確定する。ここは母親の主張を医者が否定したような描写にとどめて、中盤までは自然現象や人間の行為で起こりうる範囲にしたほうが、もっと虚実がさだまらない不安感が増しただろう。
ある意味で純粋な宗教映画のようにも感じたが、現代に信じづらい超常を信じぬくことが求められる映画ではない。多くの苦難と恐怖に直面しながら立ちむかう精神が求められている。悪魔は苦難の象徴であって、神秘の入り口ではない*2。少女への入念な医学的な検査も超常現象への懐疑というより、大がかりな医療機器で少女を拘束する苦難描写の一環に思えた。
しかし俳優に多くの負担をかけた撮影現場を思うと、ただ人間を痛めつけることを監督が楽しんでいただけではないか、ともかんぐってしまう。
予告なしにショットガンを撃ってカラス神父をふりかえらせた有名なカットにしても、実際に見ると効果的な演出とは思えない。冒頭でメリン神父がふりかえるカットのほうが迫真性を感じたくらいだ。
*2:なぜ少女が悪魔に憑依されたのかは最後まで解明されないし、教会のマリア像を物理的に改変した黒ミサの犯人もわからないまま。『シャイニング』の黒幕とちがって、劇中でも何らかの犯人がいたと思われる描写になっているのだが。ディレクターズカット版を見ると理解できるのだろうか。