法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

キャンセル・カルチャーと妥当批判のパラドクス


三者が焦点化しているのは例の「呉座〜オープンレター問題」で、議論の相容れなさは明白。藤崎氏の姿勢は冒頭の「CCは存在しない。ただCされる者がいるだけ」に象徴され、どの程度のペナルティが妥当かというCの「相場」は社会的合意形成をとしつつ「差別主義者は社会から退場しなければならない」。→

 id:ohnosakiko氏による上記ツイートのツリーは見たが、id:hokusyu氏の文章もふくめて書籍の中身はまったく読んでいない。


 さて、批判を受けて表現が何らかの変化をせまられることを、表現の自由への侵害と仮定する。
 おそらく妥当と思われる批判ほど表現者がうけいれて変化しやすく、不当性が自明な批判ほど表現を変える力がなくなる。
 すなわち批判として妥当なほど表現の自由を侵害し、不当な批判ほど表現の自由をおかさないことになる。


 もちろん批判をうけいれる理由は批判の妥当性だけではない要素がさまざまあるが、上記のような可能性がありうることは否定できない。
 これがパラドクスに見えるのは、何よりも最初の仮定が乱暴なためだとは思っている。しかし上記の仮定が間違いであっても、いやだからこそ、「キャンセル」という結果にいたることと、その結果にいたらしめた批判の妥当性は、必ずしも相関しないと考えるべきだろう。
 だから「キャンセル」になったことをもって批判の妥当性を論じることは難しいし、結果として「キャンセル」にいたったもののみを問題視する必要はない。
 批判の殺到そのものを問題視したいなら、古典的な「炎上」や「サイバーカスケード」といった言葉がふさわしいだろう。批判の不当性を批判したいなら、やはり結果としてキャンセルされたかどうかではなく、まずは不当な批判ということを論じるべきではないだろうか。


 たとえば不謹慎なパロディ作品『異世界転生者殺し チートスレイヤー』などは実際に「キャンセル」が求められ、結果としてそうなったのに「キャンセル・カルチャー」とは呼ばれないことが問題提起されていた。
hokke-ookami.hatenablog.com
 あるいは「キャンセル・カルチャー」という概念を好んで「キャンセル」を問題視しているはずの人物が、作品が「キャンセル」されることへ冷淡にふるまったり、むしろ「キャンセル」を支援するような場面もある。
hokke-ookami.hatenablog.com
hokke-ookami.hatenablog.com
 何が「キャンセル・カルチャー」と呼ぶべきかよりも、何が「キャンセル・カルチャー」と呼ばれていないかが、キャンセルカルチャー問題問題を読み解くために重要なのではないか、と過去からいくつかの「炎上」を見てきたひとりとして思っている。