法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「表現として稚拙だからダメだとか空気読めとか批判している人たちは二度と表現の自由について論じない方がいい」

「表現の自由」を語る自由 - 法華狼の日記
公開した発言を批判することをストーカーあつかいする法哲学者 - 法華狼の日記
上記2エントリに対する大屋雄裕教授*1の反応について、あらためてエントリをあげておく。

その誤りについて、指摘を受けて先日に訂正したことをここに明記し、あらためて関係者各位へ謝罪する。


しかし、文字表現をもちいていたという情報だけで、撤去させられた作品を見もせずに巧拙を論じようとした本題については、まともな回答がなかった。

ちゃんとエントリで引用しておいたのだが、問題のツイートをあらためて引用する。

「そういう表現」と自分自身でなぞらえておきながら、「勝手に文脈から切り離してぶんぶん振り回している」というのも身勝手な話である。私はカギカッコにくくった上で、大屋教授がなぞらえた範囲でしか用いていない。
詳しくないという自認を素直に受け取ってはならないというから私が従ったのも、文脈を理解できたからこそではないか。それでも今さら美術に詳しくないと認めるならば、「現代美術について鑑賞眼がないと自認するのであれば、あくまで好みではないといった批判にとどめるべきだった」と最初に指摘したことが何の問題もなくなるだけ。
ただ、刑法について「知識水準で言えばまあ日本の上位1%には入る」と自称した法哲学者ならば、「ストーカー」という概念をぶんぶん振り回しているのではないと説明できるのだろう。「上位1%」の違いを見せることができるか期待したい。

いったい美術に詳しいのか詳しくないのか。作品を見ていないと公言しながら、この連続ツイートを投下しているのは、いわゆる「鯛のおかしら」*2というやつか。
しかし「(あきれずに)食い下がっていた」ことと「ストーカー」の違いは、刑法について「知識水準で言えばまあ日本の上位1%には入る」と自称した法哲学者ならば、きっと説明できるのだろう。
それはさておき、「ちなみに」と書いたのは話題を変えるという意思表示かもしれない。逸脱例の評価と文字表現が美術として成立するか否かは、それぞれ異なる問題だ。来てもいない抗議をおそれて撤去させた都美術館*3の妥当性とは、まったく関係がない。
しかし話題を変えたいのだとしても、依然として下記ツイートとの整合性は問える。

くりかえしになるが、このアングレーム国際漫画祭にまつわる問題意識は、状況認識の正確さとは独立して、かなり妥当なものだと思っている。だからこそ大屋教授自身もふくめて、普遍的に照らしあわせる意味がある。