法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

人殺しに合わせて政治や社会を変える必要などないといって、壺に合わせて政治や社会が動いていることを見逃していいのだろうか

元首相の安倍晋三氏が殺害された事件への反応に対して、「蓮華草@ohanabatake38」氏*1の意見が、180以上のいいねを集めていた。


しょうもない人殺しに合わせて政治や社会を変える必要などない。

人殺しの言い分をまともに取り合って「宗教団体から適切な距離をとるようにするまでは、自民への投票をストップするべきです」とのたまう弁護士がいるのをみると、奈良県警がはやい段階からオフィシャルに「統一教会」なんて名前を出すのは難しいだろう。

「特定の宗教団体」とだけ報じられた段階での、社会の動揺への水差しのつもりなのだろうとは思う。しかし容疑者の供述を軽々しく発表するべきではないことは、宗教団体の名称だけを隠す根拠には必ずしもならない。
「蓮華草@ohanabatake38」氏は後日に「5億円 2017@Beriya」氏の下記ツイートをリツイートしていたが、おそらく両氏の意図とは逆に、明確な情報は隠さず発表するべきだという解釈もできてしまう。


情報が出てからすぐソース不明のサンクチュアリ教会説が出てきたり、「断定」こそしないまでも「もしそうだったら銃を使ったのも納得」的な話をしてその後も特に訂正とかしない無責任な人々が溢れているのですから、各種メディアが当初慎重に情報を扱ったのも当然のことですね。


もちろん一般論として、なんらかの事件をきっかけに社会問題が露見した時、結果的にしても事件そのものを肯定しないよう配慮することは必要だろう。
しかし、ひとつの殺人を肯定しないために多大な犠牲*2を社会が生みつづけなければならないかのような読める主張になってしまえば、それもまた逆向きの動揺だろう。別人に対する「deadletter@deadletterjp」氏の批判がここにもあてはまる。


青識亜論曰く「統一教会はカルトで邪悪だと主張すればテロリストに付和雷同することになる」のでそうすべきはない、と。これぞ「筋金入り」による究極の逆張り

せめて「蓮華草@ohanabatake38」氏が、以前から統一教会の政治介入を同じように批判しつづけていたら少しは説得力があったかもしれない。しかし記憶のかぎりでは、下記のように言及したことがあったくらいだ。


日本会議ブームがきて、かつて隆盛をきわめた保守系民族派系への「統一教会認定」がすっかりすたれたのを見ると、「お前ら結局ウヨクの正体をどれにしたいんだ」と言いたくなるし、いまのいまだに「安晋会」で騒いでいる人間の志操堅固ぶりをすごいと感じてしまう。

たしかに流行として話題が消費されることは問題だが、だからこそ日本会議が話題になるなかで旧統一協会の政治介入と比較する動きもあったし、以降もいくつかのメディアで報道や注意喚起はおこなわれていた。
www.toshoshimbun.com
hokke-ookami.hatenablog.com
意図しているかどうかは別として、「蓮華草@ohanabatake38」氏の反応は旧統一協会への追及を無視したり制止したりと、矮小化する方向で一貫している。


「蓮華草@ohanabatake38」氏だけではない。再発防止や責任論を独立して問えることを忘れて、旧統一協会の加害や政治家との協力を忘却する方向にのみ本音と建前がつかいわけられていないだろうか。
事件の発生時から現在にいたるまで、報じられている容疑者の供述そのものに、さほど新たな情報が出ているわけではない。誤解をおそれずにいえば、容疑者の動機とされている問題も、あくまでひとつの家庭の範囲にとどまっており、その家庭の被害規模も過去の知見を大きく超えるものではない。
そもそも報道機関に犯行声明が送付されたような事件ではない。大多数の人々は事件の発生当初において、警察からリークされた供述や関係者の証言の報道から間接的に動機を推測できただけ。ツイッターアカウントなどのインターネット上の発言が報道で広まるまで、「人殺しの言い分」そのものを知る機会はほとんどなかった*3
それゆえ広く指摘されている政治家とカルト宗教の協力関係などは、事件の容疑者と完全に独立して話題になっている。安倍氏以外で旧統一協会と政治家のつながりが容疑者の供述として報じられた記憶はないし、安倍氏との関係も容疑者の供述は「思い込み」*4として報じられることが多かった。


それどころか、仮に容疑者自身の主観においては統一協会による被害が存在せず、先に引用したように一時期に憶測された派生団体との対立が真相であっても、それとは独立して統一協会の問題と社会が向きあうことはできる。なんらかの事件の動機が報道された時、多くの人々が普段はそうしているのではないだろうか。
容疑者の主張にまったく正当性がなくても、それと独立して社会が変化することも、良くも悪くも前例がないわけではない。付属池田小学校事件のように、再発防止として社会が変化をせまられた事例は複数ある。京都アニメーション放火事件で企業が作品公募をとりやめ、社会的にもガソリン購入規制がしかれるようになったことも記憶に新しい。派生するように放火等の脅迫にあった「あいちトリエンナーレ」は体制の変化を自民党の政治家から求められ、2022年から改名することとなった。


次回あいトリの名称変更の裏側を取材した記事が今日の朝日新聞名古屋版社会面に。「自民党の圧力」でやむを得ず変えざるを得ないことが書かれてます。美術の国際団体も、初代監督も事務局スタッフも反対。誰得なんだよこれって話。あいトリ名称残したい方はぜひお近くの自民党県議に物申してください。

まさに「あいちトリエンナーレ」改名こそ脅迫犯の思う壺と感じるところだ。もし自民党の政治家が求める方向にのみ社会の変化と不変を交互に要求できるというのであれば、それこそ「ゆがんだ特権意識」*5ではないだろうか。

*1:はてなアカウントもid:ohanabatake38

*2:そのなかには殺人が疑われる事件もある。

*3:いくつか注目されているツイートを見ると、結果的にしても「人殺しの言い分」にそった社会変化を拒絶するならば安倍政権の政策もいくつか終わらせる必要があるのでは、と感じてしまった。皮肉な話だが。

*4:「この団体と安倍総理大臣が近しい関係にあると思い込み」www3.nhk.or.jp

*5:www3.nhk.or.jp