法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

政党の姿勢でいえば、性的少数者を漫画などの悪影響とみなす支持団体は軽視され、表現の自由市場にまかせる表明が表現弾圧あつかいされることが不思議

まず神道政治連盟とは神道を背景にもち、自民党でも特に保守派の有力政治家への支持を表明している団体だ。その団体の国会議員懇談会において、性的少数者への差別がおこなわれていた。


「保守的キリスト教の価値観に基づくLGBTへの偏見に満ちている」という批判が起こり、それを受けてキリスト新聞がくわしく報じている。そして問題となった講演以前に、機関誌が下記の文章を掲載したことを指摘している。
神道政治連盟 弘前学院大学宗教主任によるLGBT断罪の講演録を配布 大学側は「関知しない」 2022年7月6日 - キリスト新聞社ホームページ

同誌には講演と同じ「同性愛と同性婚の真相を知る」と題して、楊氏による文章が掲載されている。その中で楊氏は、「同性愛を好感的に表現している映画や動画、BL/GL漫画に興味を抱き、同性との性行為を経験することによって同性愛者になることも」ある、「同性婚合法化は、公共の福祉、即ち、他者の権利に反することになり、憲法で保障されている表現・学問・思想・言論・信教の自由が侵害される」「環境の被害者となるのではなく、自然の摂理の中で生まれた人間がその摂理に従った生き方を取り戻して行くことが幸福な人間の姿」などと持論を展開。

国会議員懇談会は安倍晋三氏が会長をつとめるくらい関係が深く、ただの支持団体の問題ではない。この問題への現状の応答ひとつをとっても、表現を愛好する立場ならば自民党を支持することができないと感じてしまう。
もっとも昨今は、性的少数者を描いた物語に対して、表現の愛好者を自認する立場からの反発もしばしば見られる。表現の愛好者でも上記のような言説を軽視したり、あるいは同調することがあるのかもしれない。


一方で、日本共産党の議員が昨年に表明した法規制をふせぐ論理が、なぜか表現への攻撃へのように受けとられ、その観念が定着しているらしいことは現在もよく理解できない。
「自由と民主主義を何よりも大切にするのが共産主義の社会だ」日本共産党・吉良よし子常任幹部会員 各党に聞く衆院選(5) | 政治 | ABEMA TIMES

 吉良氏は「矛盾はない。ジェンダー政策の部分で言っているのは、子どもに対する性暴力は絶対許さないということだ。児童ポルノも子どもへの性暴力だから許されないということだ。ただし、児童ポルノという言葉を使った表現規制ということに対しては明確に否定している。表現の自由を守り抜くのは当然だし、児童ポルノを無くせば子どもへの性暴力も無くなるという話ではない。どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と答えた。

特に、“儲からないよね”という言葉に引っかかる表現の当事者が当時から少なくなかったらしいことが不思議だ*1。仮にも共産党が資本主義的な市場の論理を肯定しているのに。


「“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と吉良良子参議院議員。「エロ=金儲け」だと思っているわけですね…。そうした分かり易い構図に持ち込むこと自体が不用意なんですが…。

いうまでもなく、購入しないことでなんらかの意思を表明することも、自由であり権利である。批判を表明したり抗議を送ることも同じく一般的には表現の自由だが、それ以上に穏健な対応だ。
誤解をおそれずにいえば、日本共産党は政党として表現のおよぼす被害よりも自由を優先しすぎているという考えもできる。差別的な表現を好む読者が一定以上いれば、どれほど差別的な表現であっても流通をつづけられるのだから。
それどころか引用した三崎尚人氏のツイートが意図せず示しているように、発表したい動機が強くあれば利益を度外視して表現をつづけることすらできてしまう。


日本共産党が自由を優先していることは机上の論理ではなく、良くも悪くも過去からの一貫性が見られる。むしろ被差別当事者にとっては日本共産党の問題点として記憶されているかもしれない。
具体例のひとつとして、はげしい抗議をさけて時代にまかせがちだった日本共産党と、表現への直接抗議をおこなっていた部落解放同盟の対立がある。それは映画『橋のない川』をめぐる介入に行きついた*2
映画「橋のない川」上映阻止は正しかったか

上映阻止闘争に、解放同盟以上の情熱を燃やした共闘関係者(その多くは新左翼セクトである)はどうか。これは、自分でもよくわかる。一九七三年高校二年の時からしばらくセクトで活動をしていた経験からいうと、共闘の側の動機も、まったくの反日共である。共産党は、革命を歪め、人民を裏切った奴らだ。そして、彼らの差し金で動いている日共系の映画監督である今井に良い映画が撮れるはずはない。映画は見てみなければわからないなどというのは日和味主義である。部落解放運動を我が革命的潮流に獲得するために、断固闘わねばならない、とまぁこういう乗りである。映画の中身から出発しているのではないから、軌道の修正のしようもない。ただ、倒すべき敵があるだけである。(もっとも新左翼反日共的心情はともかく、部落解放同盟が反共産党にこりかたまった点には、共産党自身にも大いに反省すべき点があることは事実である。特に一九七四年ごろから始まった第二期の「橋のない川」上映運動は、部落解放のためというより、解放同盟挑発の道具という臭いが強くするのである)。

ここではどちらの団体の傾向が正しいかはあえて論じない。あるいはどちらも表現の自由の敵だと感じる人もいるかもしれない。
しかし、よく近年のインターネットで語られる「表現の自由」や「市場」というものが、実際のそれとは乖離しているのではないかとは思える。
日本のアニメは米国のアニメに市場規模で大きく劣っている。だからといって日本のアニメが全面的に劣っているとは思わないし、さまざまな問題が解決できずに市場から退場することも良しとしない。

*1:児童ポルノ」と「エロ」を同一視していること自体にも首をかしげる。少なくとも話題になっている「児童ポルノ」の指す範囲くらいは考慮して反論するべきだろう。 www.jcp.or.jp

*2:この文章を1993年に書いた灘本昌久氏は、後に部落解放同盟と関係が深いセンターの機関誌に「部落解放に反天皇制は無用」という文章を公開して、批判されてセンター所長を辞任した。http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20030425.pdf しかし残存する階級差別への反対を「無用」と主張すれば、被差別部落の当事者から批判されて当然だろう。昭和天皇を弁護する内容にしても、当時でも歴史学的に正しいとはいいがたいように感じられる。