法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「ジェシカ論法」より「現場プロフェッショナルロマン主義」という概念に普遍性があると思うよ


タリバン支配に抗議してアフガニスタンまで体張って止めに行かなかったら、二度と「女性の人権」など口走ってはいけないと思う。
世界最悪の女性の人権侵害が目の前に迫ってるぞ。

はてなブックマークで上記ツイートが批判的なコメントを集めているなかで、「まず、総理から前線へ。」というキャッチコピーとの類似をid:gryphon氏が見いだしていた。
[B! 人権] エターナル総書記 on Twitter: "タリバン支配に抗議してアフガニスタンまで体張って止めに行かなかったら、二度と「女性の人権」など口走ってはいけないと思う。 世界最悪の女性の人権侵害が目の前に迫ってるぞ。"

gryphon 「ジェシカ論法」であり、糸井重里が依頼主に忖度して作って悔やんだコピー「まず、総理から前線へ。」ですなあ。https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/20160115/p1

ジェシカ論法」とは、gryphon氏のブログエントリを読むと*1、『銀河英雄伝説』で兵士を前線に追いやる後方の政治家へジェシカという女性キャラクターが批判したシーンを引いたものらしい。
後方の権力者に現場の負担を実感させようとするレトリックを「ジェシカ論法」と呼ぶのはいいとしよう。しかし、意見をもった市民ひとりひとりに現場で実行しなければ二重基準であるかのような主張とは、権力関係などの違いが大きすぎる。
力なき市民ひとりひとりも国際的なそれをふくめた社会の一員と自覚させることには意義がある。しかしそれは政治家や軍上層部と市民ひとりひとりが同じ権力や責任をもつという意味ではない。


しかもブログエントリにはられているgryphon氏のツイートを読むと、そもそも必要条件と充分条件の違いがわかっていないのではないかと思えてならない。


それから、実はジェシカ氏、まさに亡くなる直前「転向」してまして…偶然か計算か、ここがあの作品の凄さだが、赤線部はかつて自分が言ってた「リスクある行動の主張者は、自身にその経験や覚悟がなければ主張の資格はない」の否定。

「リスクある行動の主張者は、自身にその経験や覚悟がなければ主張の資格はない」は「リスクある行動の主張者は、自身にその経験や覚悟があれば主張の資格がある」という意味ではない。
もちろん引用されている「死ぬ覚悟があれば、どんな愚かなこと、どんなひどいこともやっていいというの?」という問いかけと矛盾や変節を見いだす必要もない。


現場のリスクを経験しさえすれば政治家の主張に価値があるかというと、やはりケースバイケースだろう。現場経験は信頼をえる一材料だが、経験により客観性などを失うこともある。
現場を賞揚して上層や構造が軽視されたりする問題もふくめて考えるには、「ジェシカ論法」よりもid:hokusyu氏の提唱する「現場プロフェッショナルロマン主義」が良いのではないかと思う。


暫定的に「現場プロフェッショナルロマンチズム」とでも名付けるべき問題があると思うのです。末端の現場で職務をこなす「プロフェッショナル」(自衛隊や警察含む)の職業精神を無批判に称揚し、享楽する。そしてそれは「脱政治的」とみなされ、あらゆる「政治」より価値があるという信仰。

銀河英雄伝説』全体に対してhokusyu氏が別件で指摘していた「無能者ヘイト」も、「現場プロフェッショナルロマン主義」の一形態のあらわれと考えていいかもしれない。


あ、たしかに無能者ヘイトは強く感じますね。銀英伝じたいが結局歴史を動かしていくのは優秀な指導者や将軍たちである、という話ですものね。民主制を擁護している割には同盟がちっとも民主主義的に感じられないとか。

hokusyu氏がリプライをおくっている「こぐま@qua_gma」氏のツイートも示唆的だ。gryphon氏も『銀河英雄伝説』のファンではあるらしい。


実は田中芳樹における無能者ヘイトは以前から気になってました。このことと田中ファン(オタク)の保守性の問題とは通底しているように思います。このことと田中が主観的には民主主義や自由主義を称揚していることとはひとまず別の問題かと考えています

*1:南京事件否定論が掲載されていたようなWEBサイト「田中芳樹を撃つ!」が冒頭から肯定的に引かれていてあきれたが。最近また話題になっている名古屋市長の河村たかし氏についても、2012年に同調するような主張が管理人ブログに書かれていた。 www.tanautsu.net しかし後述する「田中ファン(オタク)の保守性」の一事例として興味深さはある。