法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

カンボジア内戦でポルポト政権の虐殺が軽視された経緯は、ロンノル政権の虐殺を重視した取材回想を読むと少し理解できる

 アフガニスタンの混乱を受けてか、かつて朝日新聞に掲載されたカンボジア紛争の記事が再注目されているようだ。
hokke-ookami.hatenablog.com
 くわしくは上記エントリに書いたが、「アジア的な優しさ」は首都進攻が穏健に見えたことを評しており、それも対立するポル・ポトロン・ノルの双方に見いだしている。
 良くも悪くも希望的観測にすぎないことは疑問符などから明らかだし、少なくともポル・ポトひきいるクメール・ルージュが政権をとった後を評したものではない。
 共産主義をふくめて革命には粛清がつきものという見解も明らかにしている。「プノンペン解放」に期待したのは親共産主義だからだとか、そういう単純な状況ではなかったのだ。


 当時のカンボジアの混乱について、主にシアヌーク政権からロン・ノル政権のクーデターまでを取材した回想記がある。2018年に亡くなった元産経記者で日本国際問題研究所*1の所長もつとめた友田錫氏の文章だ。
カンボジア断想1 平和は衝撃的だった | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)

隣の南ベトナムで戦争が荒れ狂っていたのに対して、カンボジアは、指導者、シアヌーク殿下の中立政策によって、戦火をまぬかれていた。しかもこの「中立」は、どちらかというと北ベトナムや中国との距離が近い「東寄り中立」だった。その表れのひとつが、西側の報道陣を締め出していたことである。

戦争という巨大な歯車が回っている南ベトナムとはちがって、平和なカンボジアではニュースの種を見つけるのに苦労した。国家元首として独裁的に国を動かしていたシアヌーク殿下は、何か行事があるたびに、外国の報道陣と駐在の外国の大使たちを引き連れて「臨席」する。

 回想記なのに取材対象のシアヌーク国王へ殿下と敬称をつけ、「独裁的」という少しやわらげた表現を選んで腐敗政権への批判を弱めている。
 もともと取材対象との距離の近さは、産経記者の傾向と感じている。それゆえ政治報道が権力者の広報になりがちで、排外主義につながることも多いが*2、事件記事や貧困現場の取材では弱者によりそう筆致になることもある。
 後にベトナム人が差別される歴史的な経緯や、言い争っていた目撃談も書かれ、「もっと深刻な場面を、何度か目にする機会があった」ともあるが、「総じて平和」と思っていたという。

 シアヌークへの親しみは、権力がおとろえた時期に取材したこともあるかもしれない。同じ記者クラブサイトで元共同通信の秋山民雄氏による文章では、国王主演映画が有力者をあつめた試写会で失笑されていたという経験談がある*3
 そこで秋山氏は「もともと大らかな社会であり、互いに親密な関係なのだから笑いたいときは笑うのは当たり前だ」という意見もあったことを紹介し、自身もシアヌーク外遊で「これで政争は当面休戦の見通し」という楽観的な情勢報告を本社に送っていた。


 実際には友田氏の回想記にあるように、外遊による権力空白期にロン・ノルによるクーデターが起こされた。そこでさまざまな虐殺もおこなわれた。

当時のカンボジアは総じて平和で、人びとは貧しくてものどかな暮らしを楽しんでいたと思う。それから2年足らず。1970年3月18日、サイゴン政権やアメリカ、旧宗主国フランスの出先資本などとつながりのある軍部の領袖、ロン・ノル将軍らが、シアヌーク追放クーデターを起こした。

衝撃的だったのは、旧知のベトナム人街で繰り広げられたベトナム人狩りの光景だ。目を血走らせた兵士たちがトラックで乗りつけ、家の中から老若、男女を問わず引きずり出し、トラックに押し込んでいずこへともなく運び去った。

メコン川の沖合いに進んだとき、上手から、流木らしきものが川面を埋めて流れてくるのが目に入った。川のほぼ中央にさしかかったとき、その流木らしき群れがフェリーを取り囲んだ。


なんと、流木と見えたのは、いずれも針金で腕を後ろ手に縛られ、ぱんぱんに膨れあがった人間の死体だった。

 内戦そのものが新たなはげしい惨劇を生んだことは間違いない。ただ取材以前に弾圧された人々は可視化されず、取材時の弾圧ばかり記者の実感に残った可能性もある。


 さらに次の回想で、クーデターへ対抗するため、シアヌーク勢力がポル・ポト勢力と手を組んだことが説明されている。それ以前は対立関係にあったことも。
カンボジア断想2 ジャーナリストの受難 | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)

シアヌーク殿下の支持者たち、それに長い間シアヌーク殿下と対立していたポル・ポト率いる共産党が手を組んで、ロン・ノル政府軍に反旗を翻した。全土で内戦の火の手が燃え上がった。

 国内3勢力だけでなく北ベトナムや米国の思惑までいりみだれる内戦において、各国のジャーナリストが虐殺された。証言の記録や取材時の目撃もあわせて興味深い内容だ。

カンボジア内戦を報道するために世界から集まった外国人ジャーナリスト。その数は延べにすると千人を超えたのではないか。そして不運にも帰らぬ人になった36人。多くの場合、その運命を分けたのは、「偶然」の織りなす綾のほんの一筋のちがいだった。

 注意するべきは、どの勢力が殺害したにせよ、これはロン・ノル政権時代の内戦で起きたこと。当時に現場で取材していた記者の主観では、ポル・ポト勢力の「解放」に期待する背景があったのだ。


 シアヌークは北京に亡命したまま、ポル・ポト政権によってかたちだけ国家元首に返り咲いた。
 次の回想記はシアヌークが国家を独立させながら米国の反共政策にひきずられて、流動的な立場におかれたことを説明している。
カンボジア断想3 シアヌークは叫んだ | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)

「わたしはアメリカ人にとってより害の少ない人間であり、共産主義インドシナを席捲する以前の段階では、インドシナの均衡を保ちうるただ一人の人間であった。そしてアメリカ人はそのことを理解できなかった」。


かつてシアヌークは最初の回想録(邦訳『北京からみたインドシナ』1972年サイマル出版会刊)の中でも、アメリカの「無理解」をこう嘆いている。1970年3月に軍部の領袖ロン・ノル将軍らのクーデターで国を追われ、北京で亡命の憂き身をかこっていたときのことだ。

 シアヌークはもともと独立後の援助を米国にたよっていたし、普通は王族が共産主義者と協力するはずがない。しかし米国の影響力をおそれる事態が連続した。

隣の南ベトナムアメリカの援助にどっぷり漬かり、事実上の属国となっていくのを目の当たりにして、殿下の対米警戒心は急速に強まっていった。折りしも、国内右派の「自由クメール運動」がアメリカのCIA(中央情報局)を後ろ盾に、シアヌーク政権へのクーデターを画策したことも発覚した。

 あまりそういう論点にしたくないが、こういう計略におけるCIAの無能さは今回にかぎらないすごさだ。

国内政治にあっては、王制を目の仇にするポル・ポト率いる共産党を徹底的に弾圧した。アメリカはこうした事実には目を向けず、頭から殿下を「反米主義者」と決めつけたのだった。

 そして回想記にはポル・ポト政権による悪名高い虐殺がしるされている。少し長いが、あえて全体を引用しよう。

1975年4月、中国の肝いりで結成されたシアヌークポル・ポトの連合勢力の勝利で内戦が終わった。だがそれは、平和なカンボジアへの回帰にはつながらなかった。過激な共産主義を信奉するポル・ポトらの新しい支配の下で、国民の大量虐殺が繰り広げられた。その規模と残虐さは、世界でも、ほとんど類を見ない。虐殺の規模については政治的な立場によって諸説が流布したが、のちにアメリカのエール大学が行った学術調査は、当時のカンボジアの人口約500万人のうち170万ー180万人の命が奪われたと推計している。


内戦中、ポル・ポトの「盟友」だったシアヌーク殿下とその家族も、「封建制度の象徴」として王宮に軟禁され、あわや粛清されるところだった。14人の子と孫、数多くの側近が殺された。のちに殿下は自著(邦訳『シアヌーク回想録』中央公論社1980年刊)で、生き延びることができたのは中国が待ったをかけてくれたおかげだった、と明かしている。

 元産経記者が被害規模の「諸説」にふれて、最多説の300万人*4よりは少ない数字をあげている。
 先述のようにシアヌークが反クーデターとして協力していた時期があることや、シアヌークが生存できたのはポル・ポトを支援した中国が止めたという証言にもふれている。
 そして具体的なポル・ポト虐殺にふれた記述は、ほぼこれだけで全体の3%くらい*5。それも現場で取材した筆致ではなく、公開情報をまとめただけ。
 取材以前に弾圧された人々は可視化されず、取材時の弾圧ばかり記者の実感に残るように、取材不能なほど弾圧がはげしければ可視化されないのかもしれない。


 ポル・ポト政権の虐殺について、日本でまとまった報道は政権崩壊直前の1978年くらいから*6。その報道へ懐疑的な評価も多かったようだ。

 友田氏の回想記にあるように、当時は同じ共産主義陣営でソ連と中国が対立し、それぞれの影響力が強いベトナムカンボジアが代理戦争をおこなっていた。

シアヌーク殿下は、中国に説得されて、カンボジアベトナムの占領と事実上の支配から奪い返すために、倶に天を戴かぬと思い定めていたポル・ポトと、またもや手を組まされた。

 回想記には明記されていないが、当時の米国と日本はしいていえば中国に近かった。1978年にはじまったベトナムの侵攻*7は、冷戦終結までつづいた。


 共産主義に懐疑的であればポル・ポト虐殺をすぐ報じられたとか、そういう単純な状況でもなかったのだ。
 ただ、大国の思惑に左右される内戦の解決しづらさや、敵の敵を味方と思って安易に歓迎するべきではないことは読みとれる。
 さまざまな差異に注意しつつ、アフガニスタンの混乱とその報道にてらしあわせる価値もあるだろう。

*1:政策シンクタンクで、以前に批判的な言及をした秋山信将氏が主任研究員をつとめている。 hokke-ookami.hatenablog.com

*2:下記エントリで書いた「現場経験は信頼をえる一材料だが、経験により客観性などを失うこともある」は権力者にかぎらない問題であり、下書きしていた今回のエントリが念頭にあった。 hokke-ookami.hatenablog.com

*3:シアヌーク映画の夢と現実 | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)

*4:たとえば2018年の特集TV番組がつかった数字である。www.tv-tokyo.co.jp カンボジア教育支援活動をおこなっている河合塾でも、飢餓や強制労働をふくめた総被害として記述。www.kawaijuku.jp

*5:引用した文章は約400文字で、回想記全体は約14000文字。

*6:なお、著者は1975年から1976年の時点で、組織的ではない可能性を想定しつつ、侵攻時の「とうてい擁護することはできない」事例も報じているようだ。 www1.odn.ne.jp 侵攻時に他の虐殺報道を強く否定したことと、政権樹立後の虐殺を1978年に報じたことで、「変節」という評価も根強いが。一例として山形浩生 (id:wlj-Friday)氏のページを紹介。 cruel.org

*7:単純な侵略でもなく、カンボジアポル・ポト政権と対立する勢力との協力関係もあった。