法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『のび太の新恐竜』は同じ展開でもポケモン映画だったなら佳作になりえたかもしれないけど……

COVID-19の蔓延をさけるため、上映終了間近に時間をとって僻地の映画館で鑑賞した。観客席は少なく密集しているが、観客は私の他に親子ふたりがいただけ。
大ヒット上映中!『映画ドラえもん のび太の新恐竜』公式サイト
簡単にいえば『恐竜』と『竜の騎士』を合体させたような作品。そこで明確な倒すべき巨悪を出さずに対立構図をしぼったことと、元気いっぱいの映像表現は良かった。
オバケ*1を多用したキャラクター芝居に、リアルな3DCG恐竜と手描き背景動画。カメラワークも主観視点で面白いものが多い。


しかし構成や考証の甘いところが感動シーンとピンポイントでつながっているため、見ていて何度もつっかえた。
まず前半の恐竜育成と後半の恐竜救出の流れが分断されているのが単純に良くない。のび太には育てた二匹へ愛着をもつドラマしかなく、他の絶滅した恐竜全てを救おうと激情する流れが唐突すぎる。『竜の騎士』は恐竜が絶滅したことを前提に、なぜか生き残っている恐竜人という謎が生まれ、彼らに対等以上の文明人という存在感があったから、のび太たちが救おうとする動きは理解できた。終盤には誤解から対立したが、だからこそ戦いの虚しさをカタストロフがつきつける痛みがあった。
そもそもカタストロフのスケールはもっと小さな、太平洋の片隅レベルの火山活動などでも充分に物語は成立する。それならばのび太たちが出会い救おうとする恐竜の数も少なくてすむから、いきなり救う範囲がスケールアップする唐突感も薄れただろう。
「進化」を成長のように描写しているところも、大人が台詞で語った多様性の肯定と重なるようで、実際には対立している。強い能力を獲得することが進化というのは、まさにポケモン的な世界観であって、SF考証を基盤にした『ドラえもん』のそれではない。弱点に見える劣っている部分はそのままに、個として生きることを肯定してほしかった。
そもそも「進化」は現在では常識的な設定なのでサプライズにならないし、劇中でも近い恐竜の様子はそれ以前から描かれているので映画単体でもカタルシスが足りない。「進化」の果てに何があるかという結末も、原作者が存命していた1993年の中編『映画ドラミちゃん ハロー恐竜キッズ!!』で描写ずみだ。

くわしくは後日のエントリで書くが、のび太たちが白亜紀に行く設定におそらく致命的な問題がある。科学考証のツッコミどころの大半が、後半の舞台をジュラ紀に設定するだけで解消される*2ジュラ紀は中盤で間違って行くのだが、そこは三畳紀にずらせばいい。カタストロフは小さいほうがいいので、白亜紀よりむしろなじむだろう。


時代のずれや用語のおかしさ、恐竜は守るべきものという信念は、すべて『ポケモン』ならば成立しただろう。
あるいはスケールダウンしてTVSPくらいにおさめれば、下手に歴史的イベントにつなげようとして考証の粗が出ることもなかったろう。
50周年記念作品として、物語の構造を超えたスケールを描こうとしたために、全体が破綻をきたしたというところなのかもしれない。
逆に、細かい考証を気にせずスクリーンをながめれば派手なイベントがつづいて楽しめるエンターテイメントだったとは思うが……

*1:アニメーションで滑らかな動きをつくるために描かれる残像の一手法。

*2:白亜紀で、とある存在に出会うファンサービスはあるのだが、その存在がいるはずの時代はカタストロフはまだ遠いはずだ。そもそも過去の映画シリーズの出来事を合成したような物語である以上、のび太はその存在と再会したわけではなく、せいぜいパラレルワールドの関係性にすぎない。