ツイッターでko_mutsuki氏がエントリタイトルのような解釈をおこなっていた。
1つだけ、当時気になって今書いても見当違いにはならないだろうと思うことを書いておく。
— kom (@ko_mutsuki) June 20, 2019
ガメさんは『神を信ぜず』に触れたコメントで「英語だが、読めるでしょう?」と書いている。つまり、それが英語の文献であると言ってる。
英語文献については記事後半に書かれているが、「たとえば英文の資料だけにあたって書いた研究者の本は~」というガメさんの言葉をいきなり「わけのわからない」「なにに反論しているのか理解に苦しむ」と。
— kom (@ko_mutsuki) June 20, 2019
自分で情報源を示せと言っておいて、ガメさんがそれを英語の資料であると示唆したコメントへの返しが、「日本語話者の私がわざわざそんなものを主たる情報源にするわきゃないじゃん」だよ。
— kom (@ko_mutsuki) June 20, 2019
会話になっていない。
これでガメさんが裁判記録を提示しないから嘘つきだって主張されても……どうなのよ😅
くわしくは後述するが、ko_mutsuki氏は「英文の資料だけにあたって書いた研究者の本」と「英文の資料」を混同してしまっている。
当然のように、見当違いな解釈から「会話になっていない」と評されたid:Apeman氏も反駁していた。
なに捏造してんの? ほんと、ガメカルトってトップが嘘つきだから手下まで嘘つきになるんだな。これをよく読めよ。https://t.co/uPg6on2lLQ
— james F (@apesnotmonkeys) June 20, 2019
これをどう読んだらそんな解釈になるんだよw
しかしko_mutsuki氏のツイートを他の愛読者は批判せず、むしろ重要な論点のようにツイートし、それをko_mutsuki氏がリツイートしている。
これさ、結構重要な事を示唆してて、猿=能川は、英語資料なんて最初から当たるつもりが無い事を示してるのと同時に、彼が当たってきたのであろうBC級裁判記録もまた日本語という非常に限定された範囲の物しか確認してきていない事も示している。全体の数分の一程度になる?https://t.co/cvngUsqYRU
— 名無之直人 (@nanasinonaoto) June 20, 2019
「見当違いにはならないだろうと思う」とko_mutsuki氏が自説に確信を持てていないようなことが、せめてもの救いと思うしかない。
幸いにもブログでツイートをまとめていたので、その救いにかけて説明するコメントをこころみたのだが、不正な投稿と判断されてしまった。
06/20のツイートまとめ - project Ko_m
おそらく下記エントリで説明したようなFC2ブログ全体の厳しい規制に引っかかってしまったためだろう。管理人の意図によるものとは思わない。
FC2ブログの「不正な投稿」の条件の厳しさを忘れていて困った - 法華狼の日記
しかし、いったん規制に引っかかると再投稿が難しいと判断できるため、投稿した文章を公開と記録のために下記に転載しておくことにした*1。
初めまして。
ガメさんのブログが好きでいつも読んでいる人でも、ゴボウの話をどう取るかは異なる。 (↓先日、統一しろと言われたw https://twitter.com/apesnotmonkeys/status/1140474794246205440?s=20 … )
そこで指摘されている問題は、ただ多くの解釈が成立するというものではないでしょう。
複数の解釈がたがいの反論として成立するような矛盾をかかえているのに、複数の解釈者がその妥当性を争うことがない。あたかも、ガメ・オベール氏を否定評価しないことが解釈の正しさよりも優先されるかのように……
これは、フロイトのいう壊れたヤカンという寓話を思わせますね。より具体的な事例でいえば、歴史上の虐殺事件の死者はいなかったという主張と、歴史上の虐殺事件は正当な処刑だったという主張が、たがいに争わず史実を攻撃する根拠として用いられるのを見かけたりしますね。言い逃れしたいだけなんだと考えればツジツマはあいますね。
— テラコッタ (@briqcouleur) November 25, 2018
フロイト的ヤカンを思い出しました。貸したヤカンに穴が開いて帰ってきて文句をいったら、借り手は1そもそも借りてない(預かり証で否決)2もとから穴があいていた(預かり証で否決)、3返した時は穴はあいてなかった、と言い訳するの。
実際の出来事を書いたようにも受け取れるし架空の話とも受け取れる。
エッセイは事実に対する感想を述べるもので、虚構への感想の場合はそれと明示するのが一般的だと思いますが、たしかに報道や論文ほどの厳密さは求められません。
ゆえに、もし架空もしくはあいまいな記憶の話だったとガメ・オベール氏が答えるか、もしくは質問を黙殺していれば、これほど尾を引くことはなかったとは思います。
ガメ・オベール氏の主張全体が寓話という解釈がなされなかったのは、後述のように独立したエントリやコメント欄においても文献の実在性や史実性を主張したことが原因でしょう。そうしたエントリやコメント欄におけるガメ・オベール氏の主張をひっくるめて、最初から虚構として読める表現になっていることを示せなければ、「寓話」説は成立しません。
実際のところ、たぶん初期に「寓話」説をとなえたchikurin_8th氏は、事実経過を歪曲したかたちでしか自説を適示することができていませんでした。これは悪質な言い換えですね。ガメは
— ますたあ陽太郎4s (@kaolu4s) June 15, 2019
「なぜかというと、それは「当たり前」のことで、そもそもBC級戦犯の問題は
「犯人を特定する気なんか初めからまったくなかった」ことにある。」と言っています。https://t.co/Kty2zLsKBe
嫌われてマジメな返事をもらえなかったりすることは覚悟した方がいいし、そのことは筆者を責める理由にはならない。
質問ですが、ガメ・オベール氏が承認しなかった理由を語るさいの表現は、後述のように「無礼」や「失礼」ではないとしても、責めるべきではない言葉づかいだと思われますか?
具体的には「失礼なブタ野郎コメント」「失礼なクズ野郎」「本人が頭が悪いだけかしら」「失礼なマヌケ」「頭がいかれておる」「アホかよ」「おまえのチンコ頭」「ボケ」という表現ですが。
同日のApeman氏のブックマーク上のコメントを考慮してなお、「マジメな返事をもらえなかったりする」を超えた内容だと私は思います。
私が「いちばん最初が間違ってる」と思うのはここ。もしも歴史修正主義が広がることの危険性からゴボウの話を広めたくないという意図で、筆者に何か言いたかったのなら、「根拠を示せ」ではなく自分の危惧を伝え
Apeman氏の最初のコメントは「根拠を示せ」という要求というよりも、単純に資料を求めての質問に見えます。Apeman氏は都市伝説の源流を追っていましたから。実際に同時代、Apeman氏は本当に裁判記録が出されればそれはそれで良かったという意味のコメントもしていました。
むしろガメ・オベール氏のエントリが「歴史修正主義」への加担につながると指摘するよりも、質問だけの穏健なコメントといえるのではないでしょうか?
そもそも検証しようとしている内容が「ゴボウを食べさせたことだけを理由に死刑にされた人はいない」である時点で誤認がある。「ゴボウを分け与えたせいで戦犯として死刑を言い渡された」という言葉は「ゴボウだけを理由に」と限定しているわけではない。
少なくともガメ・オベール氏の「誤解」というエントリは、その解釈で成立するとは思いません。
「些細な誤解が時にいかに重大な結果を引き起こす」という主張の根拠となる唯一の因果関係として記述され、その因果関係こそが物語としての起承転結を構成しているわけです。
もし現実の戦犯裁判のようにゴボウとは別個に日本兵が明記されざる虐待をしていたならば、「日本の誠実な若者の姿」は誤解などではなく邪悪のなかのひとかけらの良心というべき「寓話」でしょう。また、他で虐待していたなら、有罪となった時に「自分の善意というものを、どれほど呪ったことでしょう」と日本兵が考えることは、ただの身勝手になりませんか?
こうした誤認による批判・追及は 「『ゴボウ』伝説、再び」記事の後半でも触れられている靖国の件が酷い。 「ついでに国民のほうは~、ボケ」というガメさんの文はそういう意味じゃないよね。
(ゴボウ本筋から離れすぎてて面倒だから誰か説明してあげて🙇)明らかな誤読をして、誤読したことが丸わかりのコメントつけて
よくわかりません。説明するのが面倒ということは、誤読だとしてもそれが明らかではない、丸わかりではないということではないでしょうか。いや自明ならば説明は逆に難しいとは思いますが、さすがに自明とまでは主張されないでしょう?
そもそもApeman氏のブックマーク上のコメントは「へぇ。それ誰のこと?」と問いかける一言だけです。もちろんこのコメントは修辞疑問と解釈できますが、それゆえに「誤読したことが丸わかり」とは思えません。
「ボケ」と呼ぶべき日本人が実際には存在しないという逆説がガメ・オベール氏の文章から読み取れないかぎり、Apeman氏のコメントは反語的な問いかけとして成立するのではありませんか?
「失礼」や「礼儀」を言葉遣いの丁寧さと解釈する誤認は、twitterで能川さんに抗議すると反論しに現れる人達も同じ。
確認しますが、Apeman氏の「へぇ。それ誰のこと?」という文章が、“その文章で想定されているのはどのような人物でしょうか?”といった文章であったとしても、「失礼」や「礼儀」の程度は変わらないと主張されたいのですね。
では仮に、「明らかな誤読をして、誤読したことが丸わかりのコメント」こそが「失礼」かつ「無礼」であり、それに対して丁寧でない言葉遣いで返すことは正当だとしましょう。
ならば、Apeman氏に対して「明らかな誤読をして、誤読したことが丸わかりのコメント」をされた場合、Apeman氏が丁寧でない言葉遣いで返したとしても正当だということになりませんか。
少なくとも、Apeman氏の立場からはそういえることになるのではありませんか?
何故ここでガメさんが「ニセガイジン」にされなくてはならないのか。その説明だけは、どこを探しても見つけられない。
それこそ「明らかな誤読をして、誤読したことが丸わかりのコメント」ではありませんか?
「外人のフリをして保守政治(売国政治)を擁護する」と記述しているのはkamayan氏であり、そのコメント欄においてApeman氏は「彼が自称しているプロフィールを疑っているということではありません」と返答しています。
少なくともそこまでの時点はプロフィールへの疑いをApeman氏は主張していないので、その説明がそこから見つかるわけがありません。
「はてなにガメさんが載せてたプロフィールを次々変えたので信用ならん」というのを見かけて、それは仕方ないかな(😅)と思ったけど。それも「信用ならん」範囲であって「ニセ」と断じる理由にはならない
それはつまり現時点のプロフィールが事実だとしても、過去にプロフィールを偽っていたことは確かだということになるのではないでしょうか。
(そもそもApeman氏は「ニセ」という表現を国籍を指して使っているわけではなかったと記憶していますが、ここは未確認なので断言はしません)
ガメさんは『神を信ぜず』に触れたコメントで「英語だが、読めるでしょう?」と書いている。つまり、それが英語の文献であると言ってる。
すみませんが、「それ」が何を指すのかがわかりにくいです。念のため、「それ」とは「裁判記録」のことですよね? 『神を信ぜず』自体は日本語の文献ですから。
また先述のように、その裁判記録が実在するというエントリにいたっては、「寓話」と読みとることは困難ですよね。ガメ・オベール氏が最終的に大勢から批判されるようになったのは、そこでガメ・オベール氏自身が実在性を主張した結果です。それとも、「英語だが、読めるでしょう?」も寓話だと主張されますか?
自分で情報源を示せと言っておいて、ガメさんがそれを英語の資料であると示唆したコメントへの返し
それこそ「明らかな誤読をして、誤読したことが丸わかりのコメント」とは思いませんか? Apeman氏が応答したのは「英語だが、読めるでしょう?」という文章ではありませんよね。
Apeman氏が反論というか当惑しているガメ・オベール氏の文章全体は、「たとえば英文の資料だけにあたって書いた研究者の本は、日本人への無理解にみちみちていて、とても読めたものではないものも多い」というものです。どう読んでも、この文章は「英文の資料だけにあたって書いた研究者の本」への否定評価であって、英文の資料に情報源があるという意味には解釈できません。
逆にApeman氏が「日本語話者である私がわざわざそんなものを主たる情報源にするわきゃないじゃん(笑)」と書いている「そんなもの」も、「英文の資料だけにあたって書いた研究者の本」なる書籍のことであり、「英語の資料」ではありません。
さらに念のため、主たる情報源にしないということと、いっさい情報源にしないということは違います。
もちろん、“英文の資料にもあたって書いた研究者の本”ならばApeman氏は情報源にしていたわけですし、それを援用して米軍資料の違う数字を先に指摘していたという順序です。
誰かを「嘘つき」と断定して「ゴボウの嘘」「ニセガイジン」と言いふらし続けることが、いいことなのかどうか。
私なりに調べた情報をブログに書きましたが、誰かに対する否定評価を「言いふらし続け」ているのはガメ・オベール氏もApeman氏と同じか、あるいはそれ以上という感触があります。
言及数から判断するかぎり、アカウントの凍結を呼びかけられるほどApeman氏がガメ・オベール氏へ執着していたとは思えない - 法華狼の日記
それではガメ・オベール氏のふるまいは「いいことなのかどうか」、どう思われますか?
念のため、こうした長文で説明をこころみるコメントをko_mutsuki氏が拒否したとしても、それ自体は自由ではあるだろう。ことばの洪水をワッとあびせかけられた時、待ってくれと止めたくなる感情も理解はする。
とはいえ、文章を短くするためにわかりやすさを犠牲にするわけにもいかない。そもそもko_mutsuki氏のツイート量が多いため、それに対応して私のコメントが長くなったことを理解するようねがいたい。