法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ドラえもん』初期の藤子スタジオについて、えびはら武司氏の証言

東洋経済オンラインに『ドラえもん』を主軸としたインタビュー記事が掲載されていた。
toyokeizai.net
記事タイトルにある「黒歴史」となった日テレ版アニメは、すでに多くの先行研究があるし、直接のタッチはしていない原作サイドの証言なので目新しい情報はない。
同名の子供がいじめられないようにジャイ子の本名を出さなかったように、ジャイアンももともとは本名を出さない方針だったことと、読者から質問されたためにえびはら武司氏が決めたというのが新証言か。

ストーリーに直接関係ない属性は、勝手にやってという感じ。「ジャイアン」の本名「タケシ」も僕の名前。最初ジャイアンジャイアンで通してた。名前をつけて同名の子がいじめられたらかわいそうだから、と。でもそのうち、「何でジャイアンだけ名前がないんですか?」って子供たちから投書が来た。それで急きょ、隣で手伝ってた僕の名前と誕生日が使われました。


さらに興味深いのが、まだ「藤子不二雄」という合作名義を用いつつ、実際はまったく別個に漫画を描いていたころのスタジオの光景だ。

雑誌の写真なんかで2人並んで写ってるけど、それはそのときだけ安孫子先生が隣室からやってきて、あたかも「いつも2人一緒です」ふうのポーズを取って、取材が終わればサッサと引き揚げていく。何かトラブルがあって2人で相談してたりすると、一ファンだった僕にはすごく貴重な光景で、見ててウキウキしたものです。

ドラえもん』の時代はすでに完全に独立して仕事をしていたと知られていたが、そこでコンビとしての行動は対外的な姿だけかと思いきや、何らかの相談はおこなっていたらしいことがわかる。
ドラえもん』初期の正式なアシスタントはえびはら武司氏ひとりだけだったらしいが、同じスタジオで漫画を制作していたためアシスタントを融通しあっていたという証言も興味深い。

藤子スタジオのアシスタントは7〜8人で、藤本先生にはもともと先生のファンだった僕1人、ほかは全員安孫子先生についていた。藤本先生が超マジメで寡黙なのに対し、安孫子先生は社交的で話しやすいというのもあったかな。

一方の人手が足りないと、アシスタントはそちらへ手伝いに回るので、そうとう忙しかったのは事実です。10代最後の2年間、僕ももう無我夢中でした。連日徹夜とか残業月200時間、300時間は当たり前。今ならブラックですね(笑)。その分、たぶん業界一の好待遇で、残業代に夜食代、少し多めの深夜手当がついて、当時大卒サラリーマンの初任給より高かった。

この証言のかぎりでは過重労働の問題を感じざるをえないが、別個の仕事をしている漫画家が同じスタジオをもってアシスタントを共有する体制を構築すれば、漫画家個人がかかえる負担やアシスタント業の不安定性が解消されるのでは、などということを感じた。