従軍慰安婦問題“誤報”の責任を不条理に負わされた元記者の、見えている風景を説明する手記。2016年に岩波書店から出版された。
- 作者: 植村隆
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2016/02/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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章ごとに論点をわけて、時系列を前後させながら、植村氏の視点でつづられている。
ひとつの資料として興味深い情報は多数あるが、残念ながらテーマがはっきりせず、とっちらかっている印象がある。厳しい状況におかれた筆者が、可能な範囲だけでも説明しておこうと書籍のかたちにすることを優先したのかもしれない。
しかし後述するように、手記としてのまとまりのなさは、植村氏に対する批判の大半が難癖でしかないことと表裏一体だ。そもそも植村氏は状況の全体を語れる立場ではない。
手記のはじまりは、教授職が内定していた神戸松蔭女子学院大学とのやりとり。ここで大学側は植村氏の釈明を聞こうともせず、一方的に内定をとりけす。朝日新聞に戻れないかという無理な提案もする。植村氏はシラバスまで作成していたというのに。しかし大学側が植村氏の主張を聞かなかったため、手記に書けることは少ない。
週刊誌に突撃された取材対象者として、自身もジャーナリストであるがゆえの指摘や、週刊誌報道に誤りがあるという主張は興味深い。しかし、植村氏自身が当初は朝日新聞の広報を通すように求めていたため、直接に取材された局面がほとんどない。逆に、独立して反論する準備をはじめると、批判側が逃げ腰になって論争にもならない。報道被害者の手記としては読みごたえがない。
新聞社を離れて大学も脅迫で辞めさせられた植村氏は、状況を動かせない弱い立場だ。それゆえ支援が増えていく過程は感動的だが、手記の段階では裁判すら進んでおらず、はじまったばかりの反撃がどう転ぶか予測できない。安易に楽観も悲観もすべきではないだろう。
韓国に興味関心が強いジャーナリストとなるまでの回想は読んでいて楽しいが、あまり本題と関係がないためか分量が少ない。
そして、おそらく主要テーマとして期待される従軍慰安婦問題だが、当時の取材を回顧する場面は短い。バッシングに対する反論もほとんどない。
だがそれは当然のことだ。植村氏が記名で報じた記事は片手で数えられるほどしかなく、なかでも独自性のある記事は初の実名証言者を匿名段階でスクープしたものしかない。
義母を通じてスクープしたという利益相反疑惑は、複数の証言と時系列で否定される。取材デスクに知らされて証言録音を植村氏は聞きに行っただけだし、その時に義母の団体は情報源の団体と対立していた。李下に冠を正さずというが、いわば冠を正した場所が後から瓜畑になったようなもの。
朝日新聞が誤報したという批判に対して、植村氏が個人として回答できることはほとんどない。それでも同時代の報道に比べて、植村氏をはじめ朝日新聞がずっと慎重に報じていたことが具体的に指摘されていく。すでに多くが産経新聞のインタビュー詳報で語られたことなので、手記独自の情報は少ないが。
植村隆インタビュー詳報において、産経側の主張が自壊していくまで - 法華狼の日記
そうして第5章だけで主要な反論が終わってしまい、それで「論破」できたと植村氏は自認する。そのような自認は恥ずかしい自画自賛になりかねないが、そもそも無関係と指摘すれば反論できてしまう今件では妥当な自己評価だ。
もちろん朝日新聞にしても、いまでは誤りとわかった記事も多くが同時代の報道と大差なく、しばしば相対的に慎重であったことが具体的な記事を示して明らかにされている。スクープといえる軍関与資料やスマラン事件や実名証言記事は、歴史研究がつづけられるたびに信頼性が高まるばかりだ。
ちなみに、スクープが西岡力氏から疑惑をかけられたこともあり、以降は従軍慰安婦問題から距離をとってきたと植村氏はいう。
つまり現在のAmazonで1位となっている長文レビューは事実誤認にもとづいているし、そもそも購入マークもないので実際に読んだかも疑わしい。
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西岡力氏、秦郁彦氏、櫻井よし子氏などから度重なる指摘があったが、植村氏は調査もせず、訂正もせず、ただ無視し続けて一方的に嘘を書き続けた。
その他の批判的なレビューも事実誤認では大同小異だ*1。「岩波書店との仲間褒め」「公開討論会に出てきなさい」*2という批判は、手記にあるように植村氏の初めての詳細な反論は『文藝春秋』に掲載されたことや、産経新聞の長いインタビューに答えた事実でくつがえされる。挺身隊の混同について「素人でもすぐに判断がつくことを混同しているのだから、最初から何らかの意図があって記事を書いた」*3という批判は、当時は産経や読売も同じ認識だったことや、被害者自身も自身を挺身隊*4と語っていたという史実で反論できる。
しかし、こうして批判者の事実誤認を指摘しようと主張するたびに、それ自体が批判すべき理由であるかのように植村氏は難癖をつけられる。思えば朝日批判に応じておこなわれた朝日検証もそうだった。
専門的な書籍から引いた用語解説が後年に不正確とされた時、大学をやめる必要があると主張する人々 - 法華狼の日記
大屋教授自身は、朝日検証にからんでデマに加担し、それを批判したところ「無料のtweet」だからと開き直り、批判する側がおかしいと反発したことがある。
従軍慰安婦問題についての浅羽祐樹教授の見解がよくわからない - 法華狼の日記
浅羽教授自身が自由記入で「強制連行の有無はすでに国際社会では主要な争点ではない」と書き、慰安婦問題についても朝日の捏造ではないと答えたはずだ。誤報部分が主要な争点にはなっていない過去の報道について、なぜ取り下げに時間を要した検証が必要だと思うのか、それがよくわからない。
著名な法哲学者の大屋雄裕氏も、比較政治学者の浅羽祐樹氏も、検証に明記されていることを無視して、検証それ自体が朝日新聞を批判できる根拠になるかのように主張した。さすがにどちらも近現代史の専門家ではないが、学問の自由が毀損される事態に隣接する分野の専門家としては、あまりにも稚拙な態度であった。
虚像にもとづいて批判され、虚像であると反論すればそれが反省のない証拠として重ねて批判される。理不尽という他ない。