法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『グリーン・インフェルノ』

森林開発を身をはって止めようとする若者の社会運動に、ひょんなことから女子大生のジャスティンが参加した。
なんとか現地で成果を出した帰り道、飛行機が墜落。ジャスティンたちは食人習慣のあるヤハ族に拉致される……


2015年に公開された米国映画。『ホステル』で知られるイーライ・ロス監督が『食人族』にオマージュをささげた。
http://green-inferno.jp/
同時期に共同製作として参加した『サクラメント 死の楽園』*1よりもホラー映画ファンの評価が高いと聞いていたが、実際に見ると意外なほど怖くない。
全体についていうと、森林開発のため傭兵までもちだす先進国企業と、異なる文化をもつ先住民族の闘争を、安易に介入してしまった若者視点で描くという戦争映画の一種に近い。
食人習慣は先住民族の文化が異なることの強調であり、食べる相手も敵と思われる相手だけ。比較すると同年に公開された『野火 Fires on the Plain』*2こそ、同じ仲間を食べるという禁忌感があった。


たしかにヤハ族に拘束されてからはカニバリズム的な描写が執拗にくりかえされるのだが、せいぜい家畜に近いあつかいなので、人間の解体から調理まで作業じみている。生きたまま解体する苦しみも描かれるが、痛めつけることや恐れさせることを楽しんでいるわけではなく、他者を恐怖させることが劇中でも意図されている拷問ポルノとは異なる。
それでもいつ食べられるかわからない部分は不安を感じさせるが、もう食べられるしかないと確定する場面にいたれば、もはや恐怖をおぼえることはない。比べると、拘束状態から脱出できるかどうかというサスペンスシーンこそ、はるかに怖さがあった。
同じように人食い人種を題材とする物語でも、手当てされているだけなのか美味しく食べられるのか不明瞭なディスコミュニケーション状態に置かれてこそ、ずっと怖く感じられるのではないだろうか。たとえば主人公たちは食人が過去の文化と聞いていて、野ざらしの死体も風葬や鳥葬という説がとなえられ、ついに仲間が食べられた跡を見つけても死者を葬る儀式であって殺したとは断言できなかったりする、といった展開で。


そもそも不快感でいうなら、飛行機墜落までの尺が意外と長いこともあって、まず若者の社会運動の“意識の高さ”の低さへの嫌悪が強かった。
あえて左翼としていうと、白人男性のリーダーが組織の決定権を持っている時点で、意識の高さが低い。主人公のジャスティンの疑問に対して、茶化しているだけと反論するまではともかく、そこで大学一年生という幼さからきているのだと見下したのが決定的に印象が悪い。
声の大きな人物に社会運動が専横される問題はよくあることだろうが、だからこそ嫌悪すべきキャラクターとしてアレハンドロというリーダーを設定したことが露骨で、ジャスティンへの見くだしを批判しない他メンバーにも共感しづらい。楽観的な活動が成果を出せた真相が明かされたりして、アレハンドロの実態がむきだしになってからは、物語の登場人物としての魅力も出てくるのだが。


一方、さほど高い意識をもっているわけではないと自他ともに認めるジャスティンが、さまざまな体験をしていく流れには嫌悪感こそないが、そこで心情がどう変化したのかわかりにくい感もあった。
知りもしないのに先住民族を守るという考えが思い上がりと反省したというには、描写が足りないようにも思える。ヤハ族の子供のひとりと交流できた場面などもあるが、だからといってヤハ族全体への敬意につながるかというと、疑問が残るところ。終盤で森林開発を止めようとする行動も、ただヤハ族をアンタッチャブルあつかいしているという解釈ができてしまう。
もうちょっと食人習慣もふくめたヤハ族の多様な側面を知っていく場面があってもいいのではないか。たとえばジャスティンの仲間を虐待したヤハ族のひとりが裁かれて、やはりヤハ族の集団に食べられる光景を目撃するとか。