法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『血と砂』

1945年の中国。少年ばかりの軍楽隊13人が、砦の奪還を命じられる。ひきいるのは、軍楽隊への厳しい命令へ反対した小杉曹長。小杉曹長は、砦を奪われた責任で見習士官が銃殺されたことも問題視していた。
戦闘拒否をつづけて営倉に入っていた一等兵や、戦場でも埋葬をおこなう葬儀屋、見習士官が苦しまぬよう弾を当てた炊事係を仲間にして、小杉曹長は砦を攻略するが……


1965年に公開された岡本喜八監督作品。闘牛士を題材とした同名の洋画が複数あるが、こちらは伊藤桂一による短編集『悲しき戦記』に題をとっている。

やはりモノクロのシネマスコープサイズ作品だが、131分と当時の娯楽活劇にしては長めの尺で、いつものように軽快な演出でありつつ重厚な大作感がある。
内容は『独立愚連隊』に椿三十郎を組みこんだ作品とでもいうべきか。軍楽隊のかなでる聖者の行進をメインテーマとして、重苦しい戦場を必死で生きぬく悲喜劇として完成している。
ただ後述するように、従軍慰安婦関係の描写は一長一短で、当時の文脈を考慮しなければならない。


まず、戦闘描写の大半は小さな拠点を攻略するだけだが、押しよせる八路軍人海戦術は相当な規模だ。それもただ正面から戦うだけでなく、死者を埋葬するため運び去る場面を入れたりして、ただエキストラが多いだけではない静と動のメリハリがある。本筋とは別個に日本軍側でも大規模なモブシーンがあって、当時の東宝映画と三船敏郎の勢いを感じさせる。
山岳地帯の盆地に作られた砦のオープンセットもよくできている。これもただ規模が大きいだけでなく、映像作品として見ばえする設計が素晴らしい。三階建ての鐘楼は、派手な意匠もあって砦の中核とわかりやすく、階段を昇降することでアクションが自然と立体的になる。クリークで防備をかためていることも、跳ね橋を利用した駆け引きへとつながる。
銃撃戦についても、岡本作品らしくモーゼルが多用されるかと思いきや、今作は擲弾筒や迫撃砲重機関銃を状況ごとに使いわけている。戦闘のベテランは小杉曹長と炊事係だけだが、だからこそ軍楽隊への説明をとおして武器の特性がわかりやすく描かれて、激しい攻防でも観客が状況についていきやすい。


もちろんアクションだけが見どころではない。多用される生と死のモチーフを使いきって、きちんとドラマも閉じられる。
炊事係のつくる焼き鳥はモノクロながら美味しそうな照りを見せる。明るい曲調の聖者の行進は、霊歌という本来の役割を完遂して、最初とは異なる印象を生みだす。埋葬係の無謀な行動は、部隊を有利にも不利にもする。対する八路軍も死者の埋葬にこだわり、それが結末で戦いの前提をひっくりかえす。


ただひとつ、生のモチーフのひとつとして描かれる慰安婦が、やはり現代からすると違和感がある。
愛している小杉曹長を助けるよう口ぞえするまではともかく、最前線の砦までやってきて、性を知らない軍楽隊へ「筆おろし」をしてやる展開からして古臭い。自立したヒロインとして魅力的に描写しようとはしているが、あくまで男性に好都合な美化と崇拝にとどまっている。
しかも朝鮮出身らしい金山春子という名前で、ところどころカタコトでしゃべるくらいなのに、職業軍人に対抗して自分も国のために働いているのだと誇ったりする。砦の仮設慰安所には「新なでしこ」という看板をかかげたりもする。たしかに植民地側が地位向上や自己肯定のため支配国側へ同化することもあるが、この映画ではそれを明確な皮肉として描いていない*1
そもそも慰安婦が勝手に戦地を移動できること自体が、フィクションならではと考えるべきだろう。指揮官が前線まで芸者をつれていったらしい事例もあるが*2、小杉曹長はハードボイルドに慰安婦をこばみつづける。なぜか日本軍だけを相手にする娼婦が、なぜか戦場を自由意思で動いて陣地に入りこめるという、冷静に見ると不思議な状況になっている。


とはいえ誤解を恐れずに弁護するなら、最前線で楽器を鳴らしつづけるような娯楽作品において、リアリティを壊すほどの瑕疵ではない。
千田夏光によるまとまった書籍が1973年に出版される以前の、歴史研究が進んでいない半世紀前の劇映画だ。金山春子というキャラクター自体は一貫しているので、そういう設定と理解すればドラマを追うことはできる。
また、童貞を捨てることで一人前になるという展開のようでいて、映画全体を見ると必ずしもそうではない。戦いを知らなかった軍楽隊も、戦おうとしなかった兵士も、物語が進むにつれて軍人らしく育っていくわけだが、そうして武器を手にしたキャラクターは必ず大事なものを失っていく。一方で童貞を守りぬいた男が、最も主人公らしく生きのこった。


本当の問題は、この映画を観て、虚構と現実を混同する人が少なくないことだ。はてなブログでさまざまな慰安婦映画のレビューをしているid:nationoflequio氏もそのひとり。
《慰安婦映画列伝》東宝「血と砂」(1965)~戦場の大和撫子・お春さん(金春芳)~「ごめんなさい」ではなく「ありがとうございました」を。 - 在日琉球人の王政復古日記

第1作「独立愚連隊」にも、日本人慰安婦はもちろん、そのセリフの発音から明らかに朝鮮人を連想させる慰安婦中北千枝子)もちゃんと登場する。


そして彼女らは「強制連行された性奴隷」ではなく、「ビジネスとしてのセックス・サービス・ワーカー」であることも描かれている。
ただし、ビジネスといっても、ドライなものではなく、兵隊との運命共同体(持ちつ持たれつ)的な関係であることも描かれている。

料金を支払う兵士の立場からセックスワーカーに見えたとして*3慰安婦が奴隷状態に置かれていたことの反証にはならない。
さらにnationoflequio氏は、日本のために働いていると慰安婦が自負する台詞を「慰安婦問題の本質はこの一言に尽きる」と評価して、下記のように主張する。

左翼のように「朝鮮人慰安婦に奴隷だった。謝罪しろ」というのは間違ってる。
右翼のように「朝鮮人慰安婦は単なる金儲け商売だ」というのも間違っている。


もしも、あなたが日本の愛国者ならば、朝鮮人慰安婦には、「謝罪」でもなく、「中傷」でもなく、「感謝」と「報恩」こそが正しい態度だ。

この「感謝」と「報恩」とやらは、劇中でも批判されている靖国神社と変わらない。生前にさまざまな苦難を負わせたあげく、死後も国家の価値を高めるため存在を消費する。
虚構と現実の区別がつけられない観客がいる時、虚構と明記している作品に責任があるとは限らない。しかし、だからこそ現実の教育は重要となるだろう。

*1:一応、見くだされている状況への反発で出てきた台詞ではある。

*2:ペリリュー島では戦闘にも参加した痕跡があるが、それを題材としたドラマのように芸者側が望んだという証拠までは残っていないようだ。『終戦記念特別ドラマ 命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』 - 法華狼の日記

*3:岡本喜八監督は戦場にこそ出なかったが、召集されて訓練を受けたひとりとして、戦地の状況を同時代に聞く機会はあったろう。そもそも事典でも明記されているとおり、歴史的には私有財産をもてる奴隷制も少なくない。奴隷(どれい)とは - コトバンク