鳥越俊太郎氏の都知事選への出馬会見において、防空壕に退避した経験が語られていた。
【全文】鳥越俊太郎氏「76歳、残りの人生を東京都のために注ぎたい」都知事選出馬表明会見 - ログミー[o_O]
これはあえて付け加えさせていただいております。私は昭和15年の生まれです。終戦の時20歳でした(注:終戦は昭和20年、鳥越氏は5歳)。もちろん空襲も覚えてます。防空壕に逃げ込んだこともよく記憶しております。
したがって、戦争を知る最後の世代として、そして戦後昭和21年に小学校に入りましたので、戦後第一期生として、戦後の平和と民主主義の教育のなかで育ってきた第一期生として、やはり今申し上げたようなことは、あえて言いませんでしたけれども。
もちろん「終戦の時20歳」という誤りは、ただの口頭ゆえの誤りだろう。戦災証言にしばしばある記憶の変容を疑う必要すらない。発言のつづきを見れば、明らかに終戦時5歳であったことを前提にしている。
幼少時の記憶に限界があることもたしかで、鳥越氏も誤記憶している可能性はある。しかし同時に貴重な体験談でもあり、年齢だけで否定されるべきとは思えない。
調布市戦争体験映像記録事業(平成26年度)の発行 | 調布市
当時4歳で、逃げる人々をトラックの荷台から見ていた宮崎駿監督の戦争体験も有名だろう。
- 作者: 半藤一利,宮崎駿
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さて、この空襲体験に疑念をていするTogetterが一部で話題になっている。id:redfox2667氏がまとめたものだ。
鳥越俊太郎氏は本当に空襲体験をしたのか? - Togetter
まとめの説明文だけを読めば、あたかも鳥越氏の出身地に空襲があったという主張への反論のようだ。
しかし引用したように記者会見でそのような情報は出されていなかった。あくまで反戦の動機として体験談を出しているだけで、当時の体験をつたえることが主目的ではない。
そもそも防空壕へ避難した体験は、その町で空襲が必ずあったという意味すらもたない。たとえば原爆投下まで広島市に大規模な空襲はなかったが、もちろん防空壕がつくられていた。投下直前にも市民は避難していたが、警戒解除にともなって防空壕を出ていた。
総務省|一般戦災死没者の追悼|広島市における戦災の状況(広島県)
午前7時9分に発令された警戒警報も午前7時31分に解除され、市民は防空壕などを出て、建物疎開作業、通勤、炊事などに取り掛かっていた。太平洋マリアナ諸島テニアン島から発進したエノラ・.ゲイ号を含む3機のB29は、東から広島に進入し、市の中心部に高度9,600mからウラニュウム原子爆弾「リトルボーイ」を投下し、地上約580mで炸裂させた。
さらにTogetterの「続きを読む」を見ると、近隣に軍飛行場があって、周辺が激しい空襲に見舞われていたことは紹介されている。
吉井町から北西に15km離れた大刀洗飛行場には空襲があった
現在の大刀洗町から筑前町や朝倉市までまたがる巨大な飛行場だった。空襲は軍事拠点や大都市だけでなく、爆弾を捨てて機体を軽くするために小さな町を爆撃することもあった。
大刀洗大空襲と特攻隊 | 大刀洗平和記念館
それまで空襲のなかった大刀洗の空に米軍機が襲来したのは、終戦の年となる昭和20年(1945)3月27日のことでした。人々が初めて見るB−29の大編隊から、1000発近い爆弾が投下されました。6波にわたる攻撃で飛行場は壊滅的な打撃を受け、飛行場とその周辺で、多くの人々の命が失われました。
これで鳥越氏の体験を疑うことにこそ合理的な根拠が必要になったと思うのだが、こうした情報すらredfox2667氏は説明文に反映していない。