法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『フロム・ヘル』

アラン・ムーア原作、エディ・キャンベル作画、柳下毅一郎翻訳のグラフィックノベル切り裂きジャックを題材にして、時空を超えて虚構と現実が重なりあうさまを見せていく。
『フロム・ヘル』 | トピックス : みすず書房

本作が再現を試みているのは、新世紀に蹴破られる寸前の腐りきった扉、ヴィクトリア朝末期の社会全体の縮図。スラム街の娼婦から女王まで、すべての階層に腐敗と不安が充満するロンドンの陰惨な情景が、読む者の目に焼きつけられる。

2001年に映画化もされている。先に見ていたが、そちらはシンプルな歴史ミステリとして完成されていた。切り裂きジャック事件を解明しようとするアバーライン警部を主人公にして、VFXで再現されたロンドンの街を探索する。手垢のついた題材ということもあって意外性は低いが、ミステリらしい犯人像を提示できていた。


一方、1999年に単行本としてまとまった原作漫画は早々に真犯人を明かしており、歴史の謎解きという興味は薄い。ミステリとして楽しみたいなら、先に映画を見ておくべきだろう。
さて内容はというと、淡々とした殺害と、情報が錯綜していく社会を、素描のようにラフな絵で見せていく。サイレント演出の多用という珍しさはあったが、あまりに絵柄が日本の漫画と違いすぎていて、見慣れない社会なのに説明も少なく、しばしば登場人物が見わけられなくなった。さまざまな人物を描くにあたってつきはなしすぎていて、上巻は何を楽しめばいいのかわからなかった。
おもしろく感じられたのは下巻から。やはりアバーライン警部が探偵役として真犯人へ肉迫していくが、その過程と結末は意外なものだった。実在しない超常現象によって正解にたどりつく展開が、なんとも皮肉だし、思惑のからみあう群像劇としてよく構成されている。
それに映画では探偵役のアバーライン警部が幻視をおこなっていたが、原作では真犯人が幻視をおこない、ロンドンの歴史を超越的にまなざす。その狂気に近い神がかった言動が、すべてを歴史の闇に葬ろうとする秘密結社を翻弄する場面は見ものだ。


そして心底からおもしろかったのが、下巻の巻末に収録された補遺。
これを読むと、元ネタの怪しさを作者が理解するにつれて、虚実のあわいを描くよう方針を変えたことがわかる。それを映画で元ネタに近い明解な歴史ミステリに戻してしまったこともわかる。
まず、ラフな絵で描かれた本編のできごとが、どのように資料と虚構をよりあわせて作られたかを克明に解説する「補遺I」は、それ自体が切り裂きジャック事件の解説として読める。本編を1章読むごとに照らしあわせれば良かった。
そして、「補遺II」として収録された短編漫画『カモメ捕りのダンス』は単独作品としても楽しめる。切り裂きジャック事件について、どのような人物がいかなる真相をとなえ、その虚実いりまじる主張がどれほど情報を汚染してきたか。おのおのの推理にあたって、どれほど転倒した発想をしてしまったか。特に元ネタのノンフィクション『切り裂きジャック 最終結論』の中核をなしたジョセフ・シッカートという人物の、虚言癖としか思えない言動には誤報事件の典型を思わせる。皮肉と韜晦に満ちたセンテンスも素晴らしく、事件が混迷をつづけた過程の謎解きとしても楽しい。この短編はドキュメンタリズムを描いた作品としても必読。