法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

あやふやな時系列で文学史を語ることこそ、作家と読者を馬鹿にしていないか

ラノベ」と「純文学」の関係について自己流文学史を語る、下記のおーぷん2ちゃんねるスレッドが話題になっていた。
ページがないです。。

 このスレの目的は大きく2つだ。
【その1】ライトノベルが純文学の系譜に属すること。
【その2】だがそもそも純文学がオワコンであること。
 以上を物的証拠で示す。

ただし良い意味で話題になっているのではなく、「>>1」で上記のように主張しながら事実関係の誤りが多すぎて、批判をあびている。
はてなブックマーク - 【ラノベ】作家を馬鹿にしているガキどもちょっと来い【文学史】 BIPブログ
【ラノベ】作家を馬鹿にしているガキどもちょっと来い【文学史】に対するツッコミ - Togetter
私も「>>1」のいう「純文学」をよく知らないのだが、それでも多くの誤謬や不足が目につく。スレッドを読みながら、下記エントリを書いた時のことを思い出した。
「暇なので従軍慰安婦ネタについて解説してみる」は従軍慰安婦を解説していない - 法華狼の日記
それぞれの「>>1」が同一人物だとはいわないが、かなり印象が似ている。粗雑な根拠で自己流の解説をおこなおうとすれば、同じような主張に収斂してしまうということかもしれない。


Togetterの指摘からとりこぼされた範囲でも、いくつもの問題点が見つかる。
同じような説明を無駄にくりかえしながら、朝日ソノラマ新井素子辻真先あかほりさとるの名前は出てこない。
筒井康隆は、他作家を評価したという文脈と『ビアンカ・オーバースタディ』に言及するのみ。『時をかける少女』等のジュブナイル小説群はほとんど無視している。
作品の発表年などを具体的に書きながら、しばしば数字や前後関係が間違っている。


さらに細かく見ていっても、小説家の説明からして首をかしげる

 筒井康隆に才能を認められ、70年代からSF作家集団「ネオ・ヌル」で活動していた山本弘は、90年代に入ってライトノベルに挑戦。富士見ファンタジア文庫と角川スニーカーの発展に寄与した。

ライトノベルSFのオリジナル長編『時の果てのフェブラリー』こそ1990年だが、ゲーム原作の初単著『ラプラスの魔』は1988年に出している。
http://homepage3.nifty.com/hirorin/chosakulistnew.htm
そもそもSF新人賞で商業デビューし、定期的に短編を発表していたとはいえ、1990年代まではライトノベルを中心に小説活動をおこなっていた。挿絵のないハードカバー刊行のSF小説を精力的に発表するようになったのは2003年の長編『神は沈黙せず』からだ。
一方で「>>1」のようにSF小説でデビューしたことを正確に知っているのは、むしろ珍しい。なぜそのように歪な知識を持っているのかと考えたところ、Wikipediaが原因なのではないかと気づいた。
山本弘 (作家) - Wikipedia

マチュア時代に筒井康隆主宰のSFファングループ「ネオ・ヌル」に参加、1976年からSF同人誌『NULL』にて短編小説を発表する。

処女長編は1988年出版の『ラプラスの魔』(角川文庫より刊行)。
ゲームデザイナー集団グループSNEでSF、ファンタジー小説を手がけ、現在はグループSNE社友。1990年代の著作の大半はライトノベルの長短編で『ソード・ワールド』シリーズ(富士見ファンタジア文庫)および『妖魔夜行』・『百鬼夜翔』シリーズ(角川スニーカー文庫)の主要著者グループの一人である。

「小説・SF関連」の冒頭部分で、「>>1」の示した情報が全て欠かれている。しかも角川スニーカー文庫で出版された『ラプラスの魔』が「角川文庫」と表記されており、ここだけを読めば非ライトノベルだったかのように誤解してしまうだろう。

平野啓一郎
1999年に『日蝕』により芥川賞を受賞。当時最年少。中世フランスを舞台に、錬金術師の旅路と、両性具有者との出会いを描く。クライマックスの射精シーンでは、見開き1ページが白紙という視覚的演出が絶賛された。なお本作は、RPG的ゲームの世界観に基づいていることが指摘されている。

 ※繰り返しになるが、大切なので要約する。
 今から20年以上前、RPG的な厨二全開の小説が芥川賞を取っている。
 演出上、見開き前ページ白紙など、漫画的な演出が取り入れられている。

「今から20年以上前」という算数の誤りや、ささいな誤変換は目をつぶるとして。
源氏物語』の「雲隠」が現存していないのは最初から白紙にする演出だという説があるし、「>>1」が言及している筒井康隆は1981年に単行本化した『虚人たち』で白紙演出をおこなっている。「>>1」が「>>80」で児童文学からライトノベルが分岐するきっかけと主張した時代よりも早い。
ちなみに、たまたま『日蝕』は読んだことがあるが、どちらかといえば晦渋な漢字の多用ばかりが印象に残った。

・1996年 乙一
『夏と花火と私の死体』でジャンプ小説・ノンフィクション大賞受賞。ライトノベル作家としてデビュー。角川スニーカーへ移籍し活動開始。

乙一
2002年『GOTH リストカット事件』で講談社に才能を認められ、本格ミステリ大賞を受賞。ライトノベル作品が一般文芸化された例として第一号。西尾維新がミステリからライトノベルに進んだことと対照的。

まず、乙一がデビューした「JUMP j BOOKS」は少年ジャンプ作品をノベライズしたりする新書レーベルであり、いわゆるライトノベルの主流からは外れていた。原作漫画家に表紙や挿絵を書かせたかと思えば、あまりライトノベルらしくないイラストを使ったりする。

天帝妖狐 (JUMP j BOOKS)

天帝妖狐 (JUMP j BOOKS)

乙一集英社で挿絵がありつつもライトノベルらしくない作品を手がけつつ、角川スニーカー等でも書いていた。Togetterでも指摘されているが、この「>>1」は複数レーベルで同時期に作品を発表している小説家に対して、なぜか「移籍」という表現を選んでいる。

冲方丁
富士見ファンタジア文庫および角川スニーカー文庫にて、ライトノベルシュピーゲル』シリーズを執筆。同年発表した新作は、映画『おくりびと』の監督によって映画化された。直木賞候補ノミネート複数回。

・1996年 冲方丁
シュピーゲル』シリーズ 角川スニーカーで活動。

冲方丁
2003年から ハヤカワに移籍『マルドゥック・スクランブル

2009年 冲方丁天地明察』が第143回直木賞にノミネート。同作は『おくりびと』の滝田洋二郎監督によって映画化された。

冲方丁に言及した部分をまとめみると、「>>1」が何を考えているのかよくわからない。何か主張の元ネタがあって、それを咀嚼せずに切り貼りすることで矛盾をきたしてしまったのだろうか。
マルドゥック・スクランブル』以降に『シュピーゲル』シリーズを出しているのだから、ハヤカワに「移籍」などしていないことは自明だ。SFやライトノベルと並行しながらアニメ脚本や歴史小説も手がけるようになった、と位置づけるべきだろう。
ちなみに、デビュー作の『黒い季節』は天野喜孝の表紙でハードカバー刊行されており、第1回スニーカー大賞でありながら「>>1」のいうライトノベルらしさは薄い。

西尾維新の動向
2006年から『化物語』シリーズで人気を博す。以後、ミステリ作家からライトノベルに移行。非ライトノベル出身でライトノベルに完全移籍する第一号となる。

箱に入った『化物語』をライトノベルに位置づけるなら、デビュー作に始まる『戯言』シリーズもライトノベルにあたるかどうか検討するべきではないか。

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

逆に完全移籍というには、『難民探偵』のようなライトノベルらしくないミステリを2009年に発表したりしているのだが。

難民探偵 (100周年書き下ろし)

難民探偵 (100周年書き下ろし)


映像化された作品の説明もおかしい。

綾辻行人『Another』、坂口安吾UN-GO』、城平京絶園のテンペスト』などミステリ関係の躍進も目立つ。なお2004年放送の『心霊探偵 八雲』の初版は自費出版である。

これらの作品を「2010年代現在」にくくっていることから、発表時ではなくアニメ化を指して「躍進」と表現しているのだろう。
しかしTogetterでも指摘されているように、『UN-GO』は坂口安吾作品を近未来SFに翻案した作品だ。それをいうならアレクサンドル・デュマウィリアム・シェイクスピアも「躍進」している。
http://www.gankutsuou.com/
http://www.gonzo.co.jp/works/1106.html
またTVアニメ化された『絶園のテンペスト』はミステリ的な構成や演出を多用しつつも、あくまでファンタジー漫画だ。同じ原作者のミステリ漫画『スパイラル〜推理の絆〜』は2002年にTVアニメ化されており、原作者自身によってノベライズもされている。城平京を2010年代の「躍進」に位置づけるのは遅すぎる。

・テレビドラマ化された「失踪HOLIDAY」や「メイド刑事」、映画化された「ブギーポップは笑わない」、テレビドラマ化された後に映画化された「半分の月がのぼる空」などのように、近年では実写化も目立つようになった。

ブギーポップは笑わない』が実写映画化されたのは2000年なのだが、10年以上前を近年と表現していいのだろうか。
ちなみに『時をかける少女』の影響下にある高畑京一郎タイム・リープ あしたはきのう』は1997年に実写映画化されている。初出はハードカバー刊行なので、現在にイメージされるライトノベルとは違うかもしれないが。
しかし、そもそも高畑京一郎はデビュー作もハードカバー刊行だ。同じ電撃大賞を受けた古橋秀之デビュー作の『ブラックロッド』も雨宮慶太表紙でハードカバー刊行された。先述したように、スニーカー大賞でデビューした冲方丁もハードカバー刊行されていた。
朝日ソノラマ文庫で発表されたミステリ3部作が、後にイラストなしのハードカバー1冊にまとめられた辻真先『合本・青春殺人事件』という事例も1990年にある。


そう、もともとライトノベルとは青少年向け小説の傾向に対して後づけされた呼称であり、厳密な区分は難しいのだ。
「ライトノベル」という名称誕生にまつわる秘話をNHK歴史番組っぽく - Togetter
そのようなライトノベルと一般小説は、当然のように「越境」できるはずだ。むしろ問題にすべきは、なぜグラデーションな境界が絶対視されるようになり、簡単なはずの「越境」が特別視されるようになったか、ではないだろうか。