黒澤明監督の『羅生門』と同じ1950年に公開され、大ヒットした戦争映画。学徒出陣した東大学生の手記にもとづいて、ビルマにおける悲惨な戦場が描かれる。音楽は伊福部昭。
DVDで視聴したのだが、パッケージ裏の解説でラストシーンの演出をネタバレしているのが少し問題。画質については、字幕の重なる冒頭部分はノイズがひどいものの、物語の本編に入るとクッキリした映像になって問題なし。
ここまで古い映画になると、技術的な粗や展開の疑問点が多少あっても、歴史的な価値が感じられるもの。
たとえば、戦場では特撮をほとんど使わないのに、日常の遠景にミニチュアセットを使っているらしいのは、おそらく照明技術の関係だろう。また、同年の『羅生門』はカメラを太陽に向けた斬新さで評価されたと聞くが、この作品では木々をなめて満月を映すカットがいくつかあった。太陽と月ではまた撮影技術における文脈が違うということだろうか。
意外なほどカメラを固定せず、PANやフォローを多用したり、俯瞰撮影もあったり、予想していたより構図に工夫があったのも良かった。
しかして、古びたことで生まれた価値だけでなく、一本の映画作品としても期待以上の内容だった。
物語がはじまるのは、孤立した兵士が泥道をさまよう場面だ。モノクロ映像ゆえに見やすく強調する必要性があったためかもしれないが、近年の戦争映画と比べても泥濘の深さと広さが圧倒的だった。
兵士は森の中で別部隊に合流することはできたが、指揮官は自身の食糧確保ばかりつとめる。多くの兵士は飢え、傷病兵は放置されている。敵と華々しく戦って散ることすら許されない戦場。
比較的に善良な兵士が仲間を守ろうとして上層部と衝突したかと思えば、森の奥で処刑される。木々の葉が輝く風景に、あっさり崩れ落ちる兵士の姿が絵画のように美しい。映画『プラトーン』の似たシチュエーションを想起した。処刑のためということを隠して森の奥へつれていく時、より激しい罰を受けさせないため先に体罰をふるったのだと釈明してみせる描写も興味深かった。物語でよくある、体罰をおこなったキャラクターを免罪する理屈が、この時点で少しひねった詐術として使われている。
やがて部隊は移動し、傷病兵は切り捨てられる。戦争の悲惨さと軍隊の残酷さを点描していきながら、全てが絶望的な戦闘へとなだれこんでいく。敵の姿は描かれず、まともな武器もなく、ただただ爆撃の下で耐えて、兵士が犬死にしていく。司令官は愚劣だが、保身にきゅうきゅうするだけの小物として描かれ、それがいっそうやるせない。
あっさり上層部は逃げのび、とりのこされた兵士は全て倒れふす。そう思った瞬間、兵士の霊魂が肉体から起きあがり、ゆっくりと集団で歩みはじめる。回想などで多用されていたオーバーラップ演出が、この作品で唯一のフィクション的な描写につながり、物語がしめくくられた。ここにきて、作中に引用された詩の一節「死んだ人々は、還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?」という問いが観客につきつけられる。
あくまで日本兵視点で小さな戦場を描いた作品ではあり、敵国兵士や植民地住民は登場すらしない。公開当時からも、この映画には一部のインテリ学徒兵の視点しかないという批判がある*1。原作となった遺稿集も、戦後に編集されたものだ*2。たしかに日本人全体の典型的な記録と位置づけるには偏りが大きいだろう。
しかし、戦場の枠組みや社会構造への目配せはある。たとえば泥沼の道を敗走する冒頭からして、君が代をBGMとして流すという演出がされており、強烈な皮肉を感じた。
徴兵される前の学生や教師が開戦反対運動をおこない、弾圧されて転向した過去も回想される。きちんと反対をつらぬくべきだったという悔恨も、痛々しく語られる。だからこそ、誰が戦争を起こしたのだと終盤で主人公が批判しても、無責任な印象が生まれず、転向をせまった日本社会への批判を読みとることができる。
観客側が批判的に観ることができる現在ならば、広い視野の問題意識をみいだせる作品でもあるはずだ。
*1:関西学院大学の「先端社会研究所 定期研究会(第7回)」で『きけわだつみのこえ』受容の変遷について語られていたらしく、公式サイトで概要が確認できる。http://asr.kgu-jp.com/list/?cid=204
*2:中尾訓生【『きけわだつみのこえ』を解釈する】という論考を読むと、インテリ意識で民族差別意識を露呈している河野通次『学徒兵の手記』と比較し、どちらが体勢的なのだろうかと悩んでいる記述がある。http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/Detail.e?id=898120120312172820