法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『野火 Fires on the Plain』

第二次世界大戦末期のフィリピン、日本軍が壊滅しつつあるレイテ島。
肺病となった田村一等兵は、部隊から追い出され、傷病兵に満ちた野戦病院からも追い返され、どこにも居場所がなくなった。
密林をさまよう田村一等兵は、現地人にめぐみを求めたり、敗走する日本兵に出会いながら、はてしなく追いこまれていく……


大岡昇平『野火』を原作として、ほとんど自主制作で塚本晋也監督が実写映画化し、2014年に世界初公開、2015年に日本全国で公開された。
映画「野火 Fires on the Plain」オフィシャルサイト 塚本晋也監督作品
1959年にも市川崑監督が映画化しているが、原作ともども簡単なあらすじを見たことがあるだけ。そのため、脚本も手がけた塚本監督の物語構成における独自性は、間接的な情報でしか知らない*1
ただ少なくとも、1時間半に満たない尺ながら、出口のない戦場を右往左往する疑似体験には充分だった。むしろ観客が前提条件を共有していれば、説明を排して状況描写に徹することができ、短い時間に凝縮できるのだ。


現在の日本映画において、戦場や兵器を実感的に描くだけの予算や技術は期待できない。俳優の外見を傷つけたり、凄惨な場面を描くことにも、さまざまな困難がつきまとう。
それでもリアリティある戦場を目指すなら、フェイクドキュメンタリーを応用するか*2、ホラー映画の文脈で制作するしかないと思っていた*3。この作品は、その予想を期待以上のかたちで実現してくれた。
映像の質感は、撮影後に入念な加工がされる近年の大作映画と違って、ほとんど素材そのままに見える。クローズアップでは俳優の毛穴まで見える。それが安っぽくもドキュメンタリーらしい実感を生みだし、切断された過去ではなく、現在につながる風景として焼きつけられる。汚れて痩せた肉体と、美しく豊かな自然の対比が、たしかにそこにあるものと見えた。
敵軍はほとんど見せないが、おかげで手作りした小道具のつたなさも隠されたし、兵器の特撮も必要ない。カメラの高さは主人公をこえることなく、戦場を移動する主観映像もあり、いつどこから攻撃されるかわからない恐怖を共有できる。一方で主人公が開けた場所に出た時は、広がりある風景が映る。最低限の海外ロケで物語に必要充分な美しい映像が撮れて、その一瞬の開放感があるからこそ閉塞的な映像に慣れることも飽きることもない。
そして序盤の安さを基準として、それを必ず上回る映像が展開されていく。オープンセットの建物は粗末な小屋がひとつふたつだろうと予想していると、それを超えた建物が象徴的に登場する*4。戦闘機そのものは映らなくとも、機銃掃射の衝撃は一発一発がすさまじく、実写邦画としては破格の再現度だ*5。肉体の損壊描写にいたっては、塚本監督の得意とするところ。


塚本作品らしい表現主義が先走ったり、予算の少なさが画面に出ることを懸念していたが、気のぬけた映像はまったくない。予算の関係もあるだろうが、スローモーションやオーバーラップも心象風景の一部でつかわれるだけで、どこまでもドキュメンタリータッチをつらぬいていた。
あえて好みで文句をつけるなら、現地人と接触して現地語をつかう場面で、日本語字幕がいらなかったと思うくらい。テロップや画面分割といった撮影後の編集を意識させる映像演出が好きではないし、低予算映画ならばテロップひとつでも削りたいところだろう。たとえば追いつめられた状況なのに日本語で話しかけてしまうか、あるいは現地語を思い出しながら話しかける描写にして、現地とのディスコミュニケーションを強調しても良かったのではないか。


しかも戦争映画としての質も高く、近年の邦画において抜きんでている。どうしても映像に目を奪われてしまうが、物語だけ見ても緻密に構成されている。おそらく原作からの取捨選択も良かったのだろうし、低予算ゆえ準備段階で計算しつくしたことも完成度を高めたのだろう。
まず、それぞれの場面で明確な目標がたてられ、登場人物が何を考えているのか混乱することがない。敵軍の姿がはっきりしなくとも、目的地が見えなくても、友軍は目前にいる。その意図をさぐりながら行動しなければならないし、だからこそ主人公は同胞と自身の内面を奥底まで見つめざるをえない。
前半で重視される物品として、「芋」と「煙草」のふたつがある。前者は生きるために必要なもので、病院に入れてもらう対価ともなった。後者は嗜好品だからこそ、少しずつ価値のなくなる疑似貨幣であり、兵士の余裕をはかる尺度となる。そのふたつと関連するように「火」の存在もたちあがる。芋を安全に食べるためにも、煙草を吸うためにも必要だからだ。火は、必需品と嗜好品という相反する物をつなげ、それゆえ芋にも煙草にも執着しない主人公すら追いつめていく。誰が芋をもち、誰が煙草をもち、どのように火を入手するのか、その争奪戦が活劇として意外な見どころとなる。
戦闘にしても、敵軍だからという漠然とした理由だけで散漫に攻撃してはこない。敵軍の姿が見えないことが注目される作品だが、実際は戦争映画らしい場面も多く、そのひとつひとつに説得力と意味がある。たとえば敵車両が単独行動していることには自然な理由があり、それが映像で明かされる瞬間に主人公を心身からさいなむ。隠れるところがない道路を夜まで待って慎重にこえる場面も、それまで少人数で行動していた対比と、俯瞰できない主人公の視点があいまって、戦争映画らしい規模を感じさせた。
全体をとおして日本軍の統制は失われていくが、形式的な象徴として冒頭がある。原作や市川版にもある描写らしいが、くりかえされるたらいまわしは軍隊描写の典型であり、それがブラックな笑いを生みつつ印象に残る。そのように強固な統制だからこそ、失われた後の個人的な絆がきわだち、その絆が枷となる痛みを強める。
戦争映画らしくないという観点で評価されているが、しっかり前半で型をふまえているからこそ、後半にかけて型がやぶれても破綻しない。


そして戦争映画が無視しがちな現地人との衝突を正面から映して、同じ日本兵との対立もはげしくなっていく。むしろ自他のもつ敵意をここまで見つめた作品は珍しい。戦争を天災のようには描かないからこそ、主人公を被害者の位置に固定せず、加害者となりゆく姿を映しだせる。
英雄や悲劇を描いた戦争映画は被害者の物語となり、現在から切断されてしまう。日本が加害者であったこと、その歴史を今も継承していることは結末の描写から明らかだ。そこに組織や作戦を批判しつつ兵士を賞揚するような、原作者すら特攻に対して表明した*6ような逃げはない。
注目されている描写は、それ自体は禁忌をおかす罪悪感は少ない。虚構から段階をふんで、そうならざるをえないと納得させられる。だから観客自身も加害者となりうることを説得させられる。

*1:たとえば、よく注目される題材以外に、前半の出来事における罪悪感が強調されているのは、塚本版の特色らしい。INTRO | 塚本晋也監督インタビュー:映画『野火』について【4/5】/2015年7月25日より全国順次公開

*2:実際に映像の印象として、NHKの歴史ドキュメンタリードラマ『タイムスクープハンター』から、未来人の要素やテロップなどの説明をとりのぞき、死体や傷跡をボカシなしで大写ししたかのように感じた。低予算で実感ある過去を映像化する目的が同じだから、方法論が似かようのは当然ではあろう。

*3:似たような戦争映画として、オーストラリアに『男たちの戦場』がある。比較すると演出は間延びしているし、ひどい戦場を描きながら兵士を賞揚する結末には落胆したが、方向性のただしさは感じられた。『男たちの戦場』 - 法華狼の日記

*4:外観は海外ロケしつつも、そこで起きる出来事は多くのスタッフを必要とするため、東京で撮影した映像とすりあわせている。見ていて気づかなかった。第5回 『野火』への道~塚本晋也の頭の中~:『野火』への道 - シネマトゥデイ

*5:アニメ映画においては、『この世界の片隅に』を制作中で知られる片渕須直監督の仕事がある。かつて『うしろの正面だあれ』の画面構成をおこなっていた時、『火垂るの墓』で表現不足だった機銃掃射を超えようと、3mの高さに土煙があがるよう作画させたのだ。WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第49回 誰だって、1ヶ所くらいは勝ちたい気持ちあるじゃん

*6:エッセイ集『戦争』の特攻をあつかった章に、兵士個人は否定できないむねが書かれていた。