法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『鬼郷』

慰安婦が名乗り出たというTV番組を聞く老女。時をさかのぼり、大日本帝国の植民地だった朝鮮半島で、日本軍の慰安所へ少女がおくりこまれる。
性処理を強要する兵士。慰安婦に手を出さない兵士。慰安所以前に娼婦だった女性。現代韓国の性暴力。いくつもの歴史の断片が舞っていく……

映画の基本情報と映像技術

ドキュメンタリー作家のチョ・ジョンネ監督が、慰安婦の心象をモチーフに、初めて撮った劇映画*1クラウドファンディングで制作資金を集め、2016年に公開された。
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初めて作品情報にふれた時は、歴史考証こそ大きな誤りは見当たらなかったが、映像作品としては少なからず不安を感じた。
慰安婦を題材にした韓国映画『鬼郷』への、niwakaha氏による奇妙な難癖 - 法華狼の日記

のっぺりと単調な照明で、衣装やセットの汚しも不充分で、うまく低予算をごまかすことができていないと感じる。
物語にしても、性的被害を受けた現代の主人公が過去の問題と超常的に出会うらしいことが不安をさそう。

しかし完成作品を見ると、予想外に劇映画として純粋に評価できる内容だった。2時間を超えるシネマスコープの映像は、統一感があり大作感すらただよう。

さすがに新設したセットは少ないようだが、過去と現代を行き来する構成のおかげで、情景が変わりつづけて飽きさせない。在日コリアンや日本人の協力のおかげか、日本語にも日本軍の芝居にも違和感はない*2
日本軍と抵抗軍が戦うのも野営陣地や草原と低予算だが、激しい弾着と兵士の勢いある動作で、充分な迫力が生まれている。周囲が見とおせない状況で撃ちあう緊張感もあり、本編の流れで見ると、短い予告より段違いにアクションとして見どころがある。
軍装等のディテールも大きな問題を感じさせない。衣服やセットの汚しは少ないが、落ちついた照明と滑らかなカメラワークで、自然に風景へ溶けこんでいる。
初期に公開されていた画像や映像は、ひょっとして予算がついていない時に先行してつくったパイロット映像だったのかもしれない。

多様な被害と加害が描かれている

物語においては、被害者を安易に聖女と位置づけず、多面的にとらえようとする。
少女時代の主人公は登場時に友人と賭けをして、御守りをまきあげる。被害者の美化をさけるためや、子供の純粋さを描くために、あえて利己的な姿から見せる。契約を押しとおして利益をえられる世界観を示して、すぐにより大きな力による契約で傷つく展開を暗示したともいえる。友人たちは映画をとおして最も大きな泣き声をあげる。
平和な山林で日本軍のトラックを少女が目撃する場面も、よく憶測で批判されているのとは違って、そのまま拉致するわけではない。あくまで平和な田舎にまで戦争が近づいている隠喩であり、目撃した少女の会話で時代と状況を説明する意味がある。実際の連行場面では朝鮮人の協力者らしい姿も映る。


この映画は、完璧な善人と純粋な悪人という構図におさまらない。被害の多様性を見つめ、分断されて無視される人々を描いていく。
導入からして、TV番組で注目されている証言者ではなく、それを視聴する注目されざる証言者が主人公だ。支援を表明した韓国社会で、主人公が冷淡にあつかわれる場面もある。逆に主人公が他の被害を忘れた局面も出てくる。
過去の慰安所では、さらに異なる慰安婦が登場する。ある慰安婦朝鮮人日本兵がいることで心を壊し、ある慰安婦は性交を強要しない兵士にほだされる。以前は娼婦だった年長者は、耐えられた経験者として周囲を支えようとする。慰安婦だけの休息で、芸をもつ年長者が歌で仲間を楽しませる場面は、シスターフッドな美しさがあった。
多様な人々と状況が映像に緊張と解放をもたらし、ただ沈鬱なだけではない物語としての見やすさがある。

日本軍の立場もそれなりに見せる

もちろん加害した日本兵にも温度差がある。
山林でトラックに乗っている日本兵たちは、遠くを通りすぎるだけだが、クローズアップすると笑顔を浮かべている。慰安所でも性を求めない兵士がいて、ひとりの慰安婦に信頼される。
慰安所で性処理しない日本兵もいたことは複数の証言に残されている。慰安所制度は、日本軍が他の福利厚生を軽視していた問題でもあるのだ。
『昭和史の深層 15の争点から読み解く』保阪正康著 - 法華狼の日記

師団長がアンケートをとったところ兵士は女性よりも甘味をほしがったという証言や、女性に金だけわたして自由に読書する時間にあてていた学徒兵がいたという証言が、特に印象深かった

慰安婦の証言を見ても、そうした日本兵に共感や愛着をいだいた事例がある。半官半民で設立されたアジア女性基金で採用された金田君子証言に、看護をおこなった時の記述がある。
被害者の声-それぞれの被害状況と戦後 慰安婦問題とアジア女性基金

モルヒネをうつと、痛い痛いとうめかないで、眠ります。後で注射が切れると、私の服をつかんで、ふだんは金田君子と呼ぶのに、その時は「姉さん」と呼びますよ。「姉さん、もう一回頼むよ」って。かわいそうで、また射ってあげると、また眠る。

戦場で短時間の性処理を強要される慰安婦としてではなく、対等な状況において日本兵に共感したという証言は他にもある。日本側の証言によくあるような肉体でわかりあう描写でないのは、考証としても当然の選択といえる。

虐殺描写を日本が批判する資格はない

よく無知から批判されている慰安婦の虐殺は、すべての慰安婦が抹殺されたという意味ではない。
死もまた、帰国できなかった慰安婦と、帰国できた主人公を分断する。生者が死者に罪悪感をもつ構図は、戦後を描く物語で定番といっていい。それを多様性と分断という映画の構造に組みこんでいる。
そもそも映画で描かれる虐殺は、劇映画のための完全な創作ではなく、証拠の残された事例から引用したものだ。それは監督インタビューからもうかがえる*3

公式に行った人の数字が分からない。 だが生き返ってきた朝鮮の女性たちの数字は公式に238人だ. もちろん虐殺記録もある。 映画にも出てくる。 必要なければ山に引っ張っていって殺してしまうと。 証言者が残した証言の記録を見れば全部死の記録だ。 だが、この記録は生きた人間の記録というものだ。 死んだ人の記録は死亡者だけ分かるという。 証拠をなくすために穴を掘っておいて虐殺した跡も発見されている。

日本政府の公式見解に関心があれば、何の研究にもとづいているか察せられるかもしれない。先に紹介したアジア女性基金の金田君子証言に、慰安婦が殺された記述もふくまれているのだ。

何人かが死ぬと、娘たちは恐ろしいから、叫びはじめた。すると、みな一緒にして、防空壕に薬をいれて、殺してしまい、埋めてしまった。埋めてから、その横に新しい防空壕を掘り、また病人が出れば、そこに入れたのだ。

さらに基金が1999年に発表した論文集で、殺害された慰安婦を浅野豊美氏がテーマにしている。殺された証言を裏づける痕跡も発見された事例をふたつ紹介しよう。
http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf

慰安婦」達は、実質的には部隊付きになっていた。「私の友人の下士官に女の行方を聞いたんですよ。そしたら、慰安婦を壕に入れろという命令が下り、その直後に手榴弾を投げ込んで殺したというんですわ」

この回想の中の1943年は、実際は、1944年の誤りであろう。手榴弾を投げ込んだことに関しては、中国軍の9月6日の記録の中に、松山の「黄家水井」に日本軍の死体が106体、遺棄されており、その中に中佐の死体1体、「女屍」6体があったことを付け加える

地下壕に爆弾が落ちて生き埋めになったというのも可能性としては考えられる。しかし、バラバラになった遺体が露出していることや、写真のキャプションの中で、「不審に思って立ちすくむ中国兵士」とあること、またハエが一面に密集している状態を考えると、日本軍が立ち去った時から、そのままそこに遺棄されていたと考えるのが自然であろう。

これは日本政府の事業として対外的に広報されている団体が、公式に発表した論文だ。同じ状況を韓国の劇映画が描いたことは、むしろ日本の見解の引用といってもいい。
それに肉体を求めなかった日本兵の存在を証言だけで認められるならば、同時代に物証が発見された資料が残されている事例も認められるはずだ。
そして映画の批判だけでなく擁護においても、日本の先行論文が参照されていないことは、日本の歴史教育の問題といえる*4

虚構による救済は評価が難しい

映画が批判するのは、過去に加害した日本軍と、その加害を忘れた戦後の韓国だ。
現代の日本は画面に出てこない。日本の観客へ見やすさをおぼえさせるかもしれないし、わずかな期待もされていないと苦しませるかもしれない。いずれにせよ映画は被害者によりそい、分断からの回復を優先していく。
最後には、虚構ならではの救いがおこなわれた。現代の巫女が魂を呼びよせ、老いさらばえた主人公と、帰国できなかった慰安婦を再会させる。周囲で日本兵もよみがえるが、そこには性処理を強要しなかった者だけでなく、個人として暴力をふるった者もいる。
映画は一貫して日本軍を加害者として位置づけてきた。慰安婦に手を出せない善良な兵士も、シンドラー杉原千畝のような英雄ではなく、他の加害を止めるまではできなかった。そのような加害者をも帰るべき魂にふくめたからこそ凄いのだが、以前に書いたように評価が悩ましいところでもある。
映画『この世界の片隅に』を加点と減点で評価したところ、だいたい映画『鬼郷』と同じくらいになった - 法華狼の日記

戦争を題材にした物語が、弱き個人の救済に収束することは、葛藤の矮小化であり、自己犠牲の一種であるといっていい。

救う範囲が広すぎて、作品自体が一部の女性に負担をしいた慰安所制度に近づいてしまった。

しかも仲間との再会で終わらずに救済がつづいていくため、物語の構成として間延びした感もあった。長いエピローグは韓国映画の通例だが、当事者を癒す目的を考慮しても、もっと短くまとめても良かった。

機会があれば観賞する価値はある

どうしても低予算らしい限界が感じられたり、視野を広げようとしてまとまりを欠いたという印象はある。
それでも全体として、ひとつの映画として完成されているとは評価できる。多重の視点により、歴史の再現と現代の問題を重ねつつ、娯楽的な劇映画としても成立していた。
描写は少ないが戦争映画としても相応の見どころがある。現代の韓国映画が中国戦線の日本軍を描いた作品としても貴重だ。映画を愛好するなら、見て損はない。

*1:ただし調べてみると、商業作品に限ってのことらしい。2012年に自主制作した長編映画『合唱』は、ドキュメンタリー的な題材であったが、演技の素人を起用して劇映画形式で完成させたという。チョ・ジョンレ監督、コリアンシネマウィーク「合唱」で登壇 | kazumiのミーハーワールド!

*2:ただ日本軍の体罰でビンタではなくキックがつかわれた場面は、いかにも韓国映画らしいと感じて思わず笑ってしまった。もちろん日本の体罰でも蹴ることはあったとわかっているが。

*3:元記事は消えているため、慰安婦を題材にした韓国映画『鬼郷』への、niwakaha氏による奇妙な難癖 - 法華狼の日記の引用をそのまま転載した。

*4:櫻井よしこ氏の公式サイトに転載された『週刊新潮』の記事では、「強制連行だけでもあり得ないが、映画はさらにあり得ない話を、史実であるかのように描いている」と評価し、日本の歴史学で認められた範囲ということを無視している。「 映画「鬼郷」に見る韓国反日感情の虚構 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト