法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ハート・ロッカー』

イラクで活動する米軍の爆弾処理班を題材にした、キャスリン=ビグロー監督による2009年の作品。


アメリカ製の戦争映画としては低予算だそうで、最も米軍の死者が多かった2004年のイラクを舞台としているところもふくめて、2005年の映画『アメリカン・ソルジャーズ』*1に似ている。
もちろん、アカデミー賞の複数部門で受賞しただけあって、ずっと娯楽映画としての完成度は高い。戦闘を主軸としない少人数部隊を中核にすることで、映像で粗が見えた場面もない。住民と敵が見わけられない市街地から、遮蔽物が少なくて狙撃手から丸見えな砂漠、どこに罠があるかわからない廃墟、爆発事件が起きた直後の夜間の市街地まで、バラエティのある舞台で緊張感ある戦闘が描かれた。
撃った弾の数は少ないが、その制限が逆に撃つべき対象の不明確さを演出する。“敵”の人格は全く描かれないが、それゆえに遠いスコープ越しにいる住民と混じりあい、単純な構図を否定する伏線となる。


物語構成は、戦争映画として定型的なもの。惨憺たる状況に直面しながらも、最終的に主人公は戦場に戻っていく。定型での戻る理由は、愛国心か、仲間意識か、実感欲求か、戦闘中毒か、時代によって変わる。この作品の場合、「戦争は麻薬だ」といったクリス=ヘッジズの言葉が冒頭で引用されていることから、素直に考えれば実感欲求か戦闘中毒と解釈すべきだろう。
ただし戦場に戻る主人公の立場が爆弾処理班であるところが独特だ。そこから素直に人道的活動の賞揚と読むべきか、現代的な鬱屈を読むべきか、米軍の正当性喧伝の手法と読むべきか、はっきり劇中で確定できる描写はない。


ただひとついえるのは、主人公が敗北感をおぼえるのが爆弾処理活動そのものではないこと。
独断で動いたり、仲間と協力したり、良心にしたがったりして、主人公は次々に爆弾を解除していく。失敗するのは主人公以外だけ。しかし卑劣な敵を探そうとして住民に接触した時、主人公は自分が何も知らないことを認め、地域にとっての異物と自覚し、敗北感に打ちのめされる。それまでの主人公は爆発物とばかり向きあい、住民とは基地や爆弾の付近でのみ接していただけだった。
次に起きた事件で主人公は仲間を救う。だが、主人公が独断専行しなければそもそも危機におちいることはなかったと、救った相手から非難される。この主人公の立場で象徴されるのが、つまりはイラク戦争を起こした米国そのものだろう。
だから主人公が戦場に戻る結末は、さまざまな地域へ安易に軍事介入している米国への批判と読むことができる。爆弾処理活動の評価や主人公の目的意識は諸説あるとしても、それは軍事介入で破壊した現地社会へ米国がどのように責任を持つべきかという話であって、責任がないという話ではない。その責任を主人公が認識して行動することはないが、だからこそ観客はより重く米軍の責任を見いだせるのだ。