法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『父親たちの星条旗』/『硫黄島からの手紙』

クリント=イーストウッド監督による2006年の映画。太平洋戦争の硫黄島戦を日米それぞれの視点で描いた二部作。


父親たちの星条旗は、複数の兵士が協力して星条旗を立てようとする有名な写真をモチーフに、その写真がリアルタイムで国債購入宣伝に利用されていった経過を、作られた英雄の視点で追っていく。
米国制作による米国視点の太平洋戦争映画では珍しく*1、銃後や戦後史を重点的に描いている。勝利を喧伝する作品でないのみならず、犠牲とひきかえに勝利をえたという語り口ですらない。もちろんベトナム戦争映画のように敗北感を描いたわけでもない*2
あたかも災害のように戦争をとらえて、米兵や家族の生活が狂わされていった過程を描く。当時の米国社会がさまざまな人種差別をかかえていたこと、戦争継続のため真実や家庭が軽視されたこと。そうした暗部が大義でおおいかくされたのだと、偽りのキャプションで流布した写真が象徴する。
ゆえに敵兵の人格は全く描かれず、戦闘場面は全体の半分もないが、それ目当てでも満足できるくらい質は高い。特に硫黄島上陸時の、イーストウッド監督と共同で製作したスピルバーグ監督の『プライベート・ライアンオマハ・ビーチ上陸作戦を進化させたような描写が素晴らしい。支援する戦闘機や軍艦の視点がはさまれることで、より立体的かつ客観的な雰囲気がある。さらに巨大な岩塊としか形容しようのない擂鉢山の威圧感で、現場にいる米兵の絶望感が増していた。
なお、太平洋戦争を災害のように描きがちな日本の傾向と、ひとつ異なる部分がある。国債を買うようにうったえさせられた主人公の演説は、愛国を連呼するような安易なプロパガンダではなく、今も戦場で戦っている仲間への注目をうながす内容だった。素朴な仲間意識も犠牲者の賛美も、国家への奉仕へ組み込まれうる。そしてその目配りがされているからこそ、国家意思から自由になった戦後、戦友の家族へ真実を伝えていく一人の旅姿が、より印象深く感じられるのだ。


硫黄島からの手紙は、硫黄島防衛戦の準備から敗北までを、日本軍の指揮官と末端兵士の両端から描いていく。米兵の人格が描かれるのは、日本兵の捕虜になったり日本兵を捕虜にしたりして接触した時のみ。
あくまで第一部で日本兵視点を削るためのエクスキューズ的な作品ではあり、戦争を敵国視点で現在の自己認識とも乖離せず描ききったこと以上の新鮮さはない。映像素材やロケーションも第一部から流用している。しかし新規映像が多数をしめていることも確かで*3、物語面でも水準以上の作品はなっている。
特に、硫黄島の地層と歴史をなぞらえたかのような表現が印象に残った。塹壕を掘りながら自分の墓穴のようだと皮肉っていた兵士が、擂鉢山の坑道から上陸する米軍を攻撃し、坑道内で自決する指示を拒否し、指揮官と手紙を土に埋めたところを米軍に捕縛される。埋めることと掘ることが明らかに対となっている表現だ。映画全体でも、時代がうつりかわった二十一世紀の発掘作業が冒頭と結末に配置され、歴史に埋もれた知られざる視点が光に照らされるという構成になっている。
他に印象的だったのは、自爆攻撃の辛辣な描写。指揮官に反してまでおこなわれる自決を愚かと描くことは当然として、攻撃目的であっても望んで実行する兵士は自分に酔っているのだと、ユーモアをまぶして残酷に描いていた。

*1:日本に輸入されないような作品ならば存在するかもしれないが、寡聞にして私は知らない。

*2:たまに米国も戦争継続が困難だったかのような感想を見聞きするが、国家機関が強制力を発動するまでもないからこそ、国債を買うようにつのっていたと見るべきだろう。戦争中に大勢の観客を集めて華々しくスポーツイベントが開催されたり、一般人が酒場で楽しんでいたりと、『硫黄島からの手紙』での犬一匹を邪魔者あつかいした貧乏臭い日本とは格差がある。

*3:かつての戦争映画は、邦画でも洋画でも資料映像だけでなく特撮場面まで違う映画に流用することがよくあった。大作になるはずだった洋画『ミッドウェイ』の映像流用ぶりは、今でも好事家の語り草になっている。