法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ソイレント・グリーン』

1973年のアメリカ映画。SF小説『人間がいっぱい』を原案とし、人工食糧ソイレント・グリーンという設定から独自の謎解きを展開。限界をむかえた未来社会を舞台としたSF映画として完成した。


本編の演出は特に目を引くほどではなく、アクションももたついているが、冒頭の導入や結末の閉じ方は今見ても新鮮。人類文明の記録写真をこきざみに切りかえて、未来社会が成立した経過を、台詞を使わず説明していく。
ほとんど特撮を使わずに日常風景を暗黒の未来社会として描く手法は、1965年の『アルファヴィル』、1966年の『華氏451度』、1968年の『ウルトラセブン』「第四惑星の悪夢」、1972年の『惑星ソラリス』等々の作品群につらなる。しかし先行作が特異な構図や情景で異世界観を演出していたことに対し、この作品は現実を延長することで、終わりなき停滞を描いている。
人種間の壁が消滅したり、コードレス電話が地味に登場したり*1。その一方で、再び女性は権利を剥奪されて「家具」と呼ばれる備品となったり*2、書籍が日常風景から消え去って学問の更新もおこなわれなくなったり。人工食糧ソイレント・グリーンは、そうした停滞した社会の物語において、映画らしいアクションとアクセントを加える小道具としての意味あいが強い。


これが遺作となったエドワード=ロビンソンの演技も素晴らしい。DVDのオーディオコメンタリーによると、ほとんど聴力を失っていたゆえにカット指示が聞こえず演技をつづけたりする失敗もあったそうだが、主演俳優ながら他の俳優と同等にあつかわれることを望み、過酷な撮影を自ら望んで乗り切ったという。
特に素晴らしいのが、チャールトン=ヘストンが入手した貴重な食糧をわけあう晩餐だ。過去を懐かしむロビンソンと、珍しい料理にとまどうヘストンを、ゆるやかな時間で描いている。台詞はないのに、世代で異なる食文化への思いと、たがいを思いやる心情が雄弁に伝わってきた。アドリブ演技の、しかも場面そのものが後づけとは信じられないほど、素晴らしい一幕だった。


この映画で描かれた未来像は、主演のヘストンが米国の保守派としてさまざまな顔を持っていたことを思い出させる。ヘストンは全米ライフル協会の会長として銃器保持をかたくなに主張しつつ、公民権運動に強く肩入れしていた。もちろんどちらも市民の自由を獲得するという目的では同根の運動だが、片方は時代の流れに遅れて弱者への抑圧に転化してしまっている。
古き良き時代の幻想と、それがロビンソンに犠牲をもたらした現在。建前と実態のはざまで抑圧をしいられる大衆。かつての弱者が自由を与えられたようでいて、新たな弱者を構造的に作り出している社会。
そして劇中でBGMが流れるのは、終盤のノスタルジーを喚起する記録映像と、同じような記録映像が流れるEDだけ。豊かな幻想としての過去を賞揚するノスタルジーに満ちた物語だからこそ、未来予測SFとしては古びた現在でも楽しめるのだろう*3


ちなみに、藤子F作品への影響がよく指摘されるが、きちんと見比べると、それほど明らかな影響を受けているとは思えない。
特にSF短編『定年退食』の元ネタといわれるが、似ているのは文明の黄昏と自らの退場を老人が受け入れる場面くらい。ソイレント・グリーンにあたるような衝撃的な小道具は登場しない。ソイレント・グリーン的な真相や描写は、むしろ藤子F作品では多いくらいなのだが。それに主人公は老人二人で、社会からの退場も予感にとどめている。
少年漫画『21エモン』にいたっては、老人が退場を受けいれる場面が似ているものの、そもそも『ソイレント・グリーン』より数年前に発表された作品だ。

*1:オーディオコメンタリーで監督が言及していた。もともとは電話をかける場面でコードに動きを制約されないための、あくまで演出の都合ではあったが、結果として予言になったとのこと。

*2:制約の多い不安定な立場だが、一般市民と比べて日常生活は充足しているところが、痛々しさを増している。

*3:オーディオコメンタリーでは主演女優と監督が未来への警鐘として今でも通用すると語っているが、さすがにその後に作られた未来予測SFよりも迫真的とはいいがたい。