法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『まおゆう魔王勇者』第一章 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」/第二章 「わたしたちをニンゲンにしてください」

第一章の時系列をいれかえた構成は良かった。一方的に魔王が勇者へ知識を教え続けるだけで、内容に意外性があるわけでもない冗長な冒頭を、さまざまな立場の視点をはさんでリズムを作る。富野台*1のように物語進行の都合を優先した原作の台詞回しと比べれば、やりとりもずっと自然になっている。
何より良かったのは、勇者の子供時代を映像的なギミックで見せた改変。ここで過去を思い出して判断したから、聞き手なりに頭を動かしていると感じられ、一人で敵地に突入した勇者なりの考えは持っているという描写になった。同じ子供時代は原作でも終盤に回想されているが、冒頭における勇者の認識や態度と比べて違和感しかなく、後付け説明としか感じられなかった。


しかし第二章で、台詞を短めに処理しているとはいえ、メイド長の「虫」発言をアニメでも登場させるとは思わなかった。直後に救いの手を入れているが、それもパターナリスティックな関係を前提視したものにすぎない。たとえば、メイド長も似たような過去を持っていて、その過去の自分と重ねあわせて「虫」と呼んだ描写くらい入るかなと思っていたのだが……
この描写がつらいのは、最後まできちんとしたフォローが入らないためだけでなく、当時の原作読者も当然視していて反発しなかったこと。2ちゃんねるスレッドで連載していた関係上、明らかに不快な描写であれば読者が反応したろうし、その反応を意識するならメイド長の言葉は正論ではないとわかる描写にしたはず。
個人的に思い出したのが、TVアニメ『さくら荘のペットな彼女』第3話で、主人公が先輩から正論をいわれて突き放された時のこと。先輩は悩みをかかえていて、そのタイミングで正論をぶつけた動機は、ただの八つ当たりだった。しかしニコニコ動画のコメントを表示した時、その先輩の主張を「正論」と素直に評価する意見が複数あった。主人公を突き放した先輩が、少し後に教師から「八つ当たり」と評価される描写が、しっかりあったのに。
物語のメッセージは、送り手だけでなく、受け手との相互関係で作られていく。そういうことを感じた。

*1:場面ごとに説明役と聞き手が固定されて不自然な『まおゆう魔王勇者』に対して、富野由悠季監督作品は不自然なまでに誰もが台詞で説明して全体の印象が平板になる。たまたま先日にOVAリーンの翼』を見返して、誰も彼も饒舌な不自然さに呆れた。