法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「平和の塔」と「八紘一宇」のオリンピック

宮崎県宮崎市の「平和台公園」に、「平和の塔」という巨大なモニュメントがある。当時の宮崎県知事の提唱を受けて1940年に建設され、1964年の東京オリンピックでは国内聖火リレー第2コースの起点となった。
設計した彫刻家の日名子実三は、日本サッカー協会のシンボル「八咫烏」をデザインしたことでも知られている。
JFAの概要|JFA|日本サッカー協会

ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました。


しかし1940年、つまり皇紀2600年に合わせて公的に完成した巨大モニュメントが、現在の観点から平和的な目的で建設されたと考えることは難しい。
宮崎市観光協会平和台公園紹介ページに写真が載せられているが、その前面に「八紘一宇」の文字が刻まれていることが確認できる。
平和台公園 - 観光情報|宮崎市観光協会

平和台公園の公式サイトでも、ページ上部でデザイン化された風景にわざわざ「八紘一宇」と文字を刻んでいる。
公園マップ「平和台公園」

しかし「八紘一宇」についての説明は何もない。他にはマップのアイコンをクリックして単純な説明が得られるだけで、歴史的な背景はいっさい記されていない。


この「平和の塔」は、かつて「八紘一宇の塔」と呼ばれ、正式名称を「八紘之基柱」といった。
宮崎市の乾物屋「くま屋」サイトの観光紹介ページで「平和の塔」特設ページがあり、くわしく歴史が解説されている。本来ならば観光協会こそ率先して載せるべき内容だ。
http://www.kumaya.jp/heiwa-tou.html*1

テレビ宮崎制作のドキュメンタリー番組「石の証言 〜平和の塔の真実〜」の取材班が発見した文書によると、相川知事が当時の陸軍大臣板垣征四郎氏に献石への協力を求めた事実があったことが分かりました。陸軍はこれを受けて構想発表から約半年後の昭和14年7月末に在満在支各軍に対して「石材寄贈については各部隊毎に各2個を標準とし、1個は軍又は部隊司令部所在地付近のもの、1個はなるべく第一線付近のものとす」 「第一線においてはなるべく皇威の及べる地極限点付近のもの。遅くとも本年11月末までに送付すること」という通達を出していました。そしてこの通達により、まるで手柄を争うかのように、中国全土の最前線部隊から石が送られてきたといいます。

「平和の塔」とは、日本軍が侵略した各地域から石材を奪い、集積させたモニュメントなのだ。それも単に資源を奪ったのではなく、現地の建造物を破壊して送り、石材として利用した。醜悪な罪のモザイクといったところか。
しかし敗戦した直後、「八紘一宇」の文字は削られ、「武」を象徴する彫像一体も外された。その動きを主導したのが誰かは諸説ある。

 『県政八十年史』
 ・・・1946年1月、駐留米軍副隊長マスマン少佐の「塔に禁制の『八紘一宇』の文字があり背面に不穏当な碑文がある。文字や碑文を平和的なものにし武人像を取り除いて平和的な神像に替えるなら良いのではないか」と言ったことなどから取り除かれ誰いうとなく「平和台」・「平和の塔」と呼ぶようになった・・・・・

 
 『宮崎市史』(昭和39年同市刊)
 ・・・終戦直後進駐してきた連合軍の感情にさしさわりがあってはならないという心づかいから、碑文をはずし武人像を打ちくだいて取り除いた・・・・・

 
 毎日新聞「ドキュメント塔」(昭和45年)の証言者(当時県庶務課長兼官房主事)
 ・・・「終戦後武人像について命令は米軍からも知事からも出ていない」・・・・・

ただし部分的な破壊にとどめたことから、「くま屋」は「県当局による責任回避からの自発的撤去と考えるほうが自然です」と評している。宮崎県が公式に出した県政史でも、米軍に原因があるように表現しつつ責任を不明瞭にしていることから、実質的に自発的な動きだったろうと私も思う。
しかし先述したように、八紘一宇の文字は現在の観光写真にも存在している。そう、わざわざ戦後しばらくして復元されたのだ。それは聖火リレーの第2コース基点に選ばれた時のこと。平和台公園が整備されるにとどまらず、外されていた彫像も戻され、県観光協会会長の命で「八紘一宇」の文字まで復元された。

 オリンピック終了直後、それも官庁御用納めぎりぎりの十二月二十六日に岩切章太郎観光協会長(当時)から、「八紘一宇」の文字復元申請書が県知事に提出された。県当局はこの申請を新年早々の八日に許可し直ちに工事を始めた。年末年始に県民に気づかれないためではないかと思われてもしかたがない。余りにも早い即決であった。 「武人像」と「八紘一宇」の文字の復元で勢いに乗り、次には、「天孫降臨」の神話にふさわし名前ということで、「平和台」を戦前の「八紘台」に改名するという請願が県議会に提出された。これは県民の知るところとなり反対運動がおこり阻止された。また、「由来記」は書き替えられて黒木知事の新しいものになった。
 「石の証言」 「平和の塔」の史実を考える会編 より抜粋

 
 しかし、この「八紘一宇」の文字も終戦後占領軍によって削り取られることになるが、昭和四十年1月三十一日、県観光協会会長岩切章太郎氏の協賛によりこの題字は、石版に刻記され、再び陽の目を見ることになる。当時、県観光協会の事務局長を務めていた地村忠志氏が直接の担当者だった。
 「昭和三十九年の十二月ごろのある日、会長(岩切章太郎氏)から突然連絡があり、自宅へ来るように、と呼ばれ、行ってみると 『君、平和の塔と八紘一宇の文字は、芸術作品だよ。元の姿に復元するようにして、県知事宛に文字復元申請書を作成して出すようにしなさい』と言われた。私はそのように文案を作成し提出したところ、同年十二月二十六日、八紘一宇文字の復元許可がくだり、取り付けは、翌年一月三十一日武人像とともに夜間のうちに行われましたが、問題はその後でした。早速、革新系や労働組合の幹部が六、七人事務所にやって来るなり、大声で『なぜ八紘一宇の文字を復元したのか。時代逆行もはなはだしい。すぐ撤去すべきだ』と怒鳴りながら、私に迫ってきました。私は動ぜず、皆さんの矢面に立つ思いで、落ち着き払い、こう言いました。『あの平和の塔と、撤去されていた八紘一宇の文字や武人像は、立派な芸術作品ですよ。元に戻すのが当然でしょう。それでなければ、日名子実三という製作者に対して申し訳ない。だから復元したんです』。・・・・・・・
 「ある塔の物語」 三又たかし著 より抜粋

経済白書の「もはや戦後ではない」という言葉は、高度経済成長にともない、戦争を忘却する象徴として使われてきた。そして1964年の東京オリンピックは忘却を完成させるために機能した。「平和の塔」がたどった歴史は、それを象徴しているといえよう。
むろん、当時の時々で時代の逆行にあらがう動きが存在していたことも確かではある。しかし、この「平和の塔」の歴史が表舞台で問われるには、反戦アニメ映画『うしろの正面だあれ』で知られる有原誠治監督が1988年に訪れるまで待たなくてはならなかった。

*1:このページからは引用時、太字強調および改行を適宜排した。