法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『UN-GO』はディストピアにふくまれるのかどうか

ノイタミナのディストピアはもう飽きた - TinyRain

ノイタミナにおけるディストピア作品を挙げていくと、主に「図書館戦争」「東のエデン」「東京マグニチュード8.0」「フラクタル」「C」「NO.6」「ギルティクラウン」などがディストピア作品に該当する。

戦争で社会が一度崩壊した後、情報の多くを管理している者が独裁的にふるまっているという意味で、ディストピア物に近いと思う。『東のエデン』がふくまれるのなら、同じようにふくめていいのではないか。
UN-GO』がディストピア物に感じられないのは、戦後の日本、復興のさなかにある社会を描いていて、一見すると未来への希望が見受けられるからかもしれない。しかしながら、それは作中世界がディストピアではないと読むべきではなく、私達がすむ現実の世界もまたディストピアの側面を持っていると解釈するべきだろう。


str017氏は下記のように指摘する。

この中で再生・再構成まで描かれている作品は、私が知る限りでは東京マグニチュード8.0ぐらいしかないのも厳しいところだ。
つまり結局はどの作品も同じように批判したいだけ批判をするだけで、批判した対象に対してそれ以上の価値観を見出せていないのだ。

UN-GO』の主人公は、独裁的な人物と対立しつつも、虚実は別として同じように真実を明かし、共同体あるいは正義を回復することを志向している。
結末に至っては、独裁的な人物こそが未来を見つめて社会を変化させようとしていたことに対し、それによって切り捨てられる痛みを主人公が批判する構図となった。あたかも、かつての革新政党がその装いと現代政治への異議申し立てを継続し続けた結果として、最も「リベラル」*1な政党になったかのように。
個人の「批判」が社会を変えることがかなわずとも、社会の問題を「批判」してはならないということはない。それゆえに『UN-GO』の主人公は、批判者の無力さを表現するために、敗北を抱きしめる立場、つまりは事件が終わった後にのこのこ現れて絵解きだけをする無力な存在、いわゆる探偵として登場したのだ。ここで「批判したいだけ批判をするだけで、批判した対象に対してそれ以上の価値観を見出せていない」立場が、物語の全体を通して肯定されたと見たい。

*1:左翼的ととらえられがちな言葉だが、実際には保守という意味も持つ。