富野由悠季作品とか。台詞に過剰な意味をこめてもいいが、それで出てくる生々しさは作者が顔を出す生々しさであって、キャラクターが生きている実感とは関係ない*1。
カットは明確な意図をもって切り取られるべきであり、それは現実を素材としたドキュメンタリーでも、役者を映した実写でも、ゼロから構築するアニメでも変わりはない*2。現実の不条理さや、理屈にあわない人の行動というなら、演出家の稚拙さではなく明確に選ばれたカットであると示さなければならない。
そういう意味では、強い意味が持たされていないような演技を描きながらも、その演技するキャラクターを作品全体の約束事として固定化した『けいおん』の無駄さには意味があったとも思う。
あまり好きな方法論でもないが、原作を尊重して出せない親のかわりに、クラスメイトとの関係を描いたという山田監督の意図は明快だ。
これも無駄や稚拙をあえてアニメで描くための方法論として理解しやすい*3。
しかし、アニメのパターンを脱するために無駄を描くというコンセプトを理解した瞬間から、最終回までの内容が全て見通せてしまい、「無駄」が脱パターンとして機能しなくなってしまう。京都アニメーション作品は余剰が抑えられており*4、意外なスタッフの参加も期待できないため、なおさら無駄描写があるというパターンに収まっていく。
なお、不条理な設定や描写ミスに勝手な補完をしたり解釈をくわえることも楽しいと思う。しかしそれは作品評価とは違う階層の話。