法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「やる夫が徳川家康になるようです」の朝鮮出兵について少し

主人公が親しい者と別れることによって成長する展開も自然で、倒すべき敵だからこそ強大に描かれ次々に立ちはだかってくる娯楽性の高さも感心したが、あくまで歴史を題材としたフィクションとして読んでいた。
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20100613/1276406216

また、やはり2ちゃんねるらしいどうしようもなさも垣間見える。「やる夫が徳川家康になるようです」では九州のキリシタン大名が、キリスト教国と奴隷貿易を行っていたことにふれるのだが、それに対して「キリスト教キチガイ」などとレスが付いてゲンナリする。当時アフリカや中南米でヨーロッパ人による奴隷貿易が盛んだったから、おそらく日本も例外ではなく、九州の奴隷貿易は事実なのだろう。ヨーロッパの侵略計画や植民地政策に、キリスト教の宣教師達が一枚かんでいたのも事実だろう。しかしそれをもってキチガイ呼ばわりするような宗教差別は論外である。

いうまでもなく、当時の日本側も人身売買へ関わっていた。戦乱の続いていた当時、人の尊厳は金で買えるものであり、捕虜などになった者は他国へ売られていったものだ。そもそも多くの奴隷制度が、売る側と買う側の相互的な差別によって成り立っている。
歴史を民主主義者としての観点からふりかえるならば、人身売買の責任を転嫁することに汲々とせず、売買と所有の対象にされた個人によりそい、しかし安易な代弁はさけるようなふるまいを選ばざるをえない。
もちろん作者は日本側が売ったことはフィクションの上ででも明記しており、脊髄反射的な受容が生まれた状況、uedaryo氏の言葉を借りるなら「2ちゃんねるらしいどうしようもなさ」という場の問題を組み込んで考えるべきだと思う。


そこで、朝鮮出兵の描写だ。

それならば秀吉の朝鮮侵略の折には、大量の朝鮮人が捕まって奴隷として売り飛ばされたりしたのだが、「日本人はキチガイ」なのだろうか。朝鮮出兵のところを読む気が起きんな。

朝鮮出兵は二十話から二十二話くらいまで。以下、少し内容にふれながら語ってみる。


まず、李舜臣の扱いはひどく簡単だが、戦争全体に与えた影響からすると大きな間違いではないと思う*1。かなりドラマチックな人生であり、それこそ「やる夫」で描けば映えると思ったりもするが、意識的に深く描写しない作者の判断も娯楽として間違いとは思わない。
豊臣秀吉ではなく徳川家康が主人公というところも良かったのか、おそらく2ちゃんねる上では踏み込んだといえるだろう二十二話99番のような描写も行い、結果として104番のようなコメントもついている。


もちろん、朝鮮出兵の描写と受容を見ていれば、全面的に肯定する気は起きようがない。
たとえば作者は李氏朝鮮で内部対立が起き、そのために朝鮮出兵への対応が遅れた様子を滑稽に描いており、それを受けて嘲笑するコメントも複数ついている。これは2ちゃんねるに作者が寝た描写であることは確かだろう。
http://yaruomatome.blog10.fc2.com/blog-entry-491.html

861 :1 ◆QznAE2I9mA[saga]: 2008/08/09(土) 21:09:08.57 ID:k6Ww.rw0
                 ツーン
          ∧_∧            ∧_∧ 
         <`A´  >          <丶`Д´>     
         (_|つ L_)          (__|=L_)   
         (_,,_,,_)          (_,,_,,_)  

    この時期、李氏朝鮮内部は派閥争いでもめていた。
    派閥はそれぞれ「西人」「東人」という名前である。

    1590年、朝鮮より秀吉のもとに使者が来たことは既に触れた。
    この時の朝鮮の使者の正使と副使は、対立する派閥から、
    一人ずつ派遣されていた。
    「西人」の黄允吉が正使、「東人」の金誠一が副使である。

       ∧__∧
     ⊂< `∀´ > ただいまニダ。秀吉は絶対攻めてくるニダ。
       ヽ ⊂ )
       (⌒)| ダッ
        三 `J

       ∧__∧
     ⊂< `∀´ > ただいまニダ。秀吉は絶対攻めてこないニダ。
       ヽ ⊂ )
       (⌒)| ダッ
        三 `J

    正使は「秀吉は攻めてくるでしょう」と報告した。
    副使は「そんなことありません」と報告した。
    そして、二人の使者が帰って来たとき、朝鮮の主流派は、
    「東人」派であり、副使は東人派である。朝鮮国は副使の意見を採用し
    「秀吉は攻めて来ない」という結論を、採用した。 

しかし作中でも描かれているように、そもそもの朝鮮出兵豊臣秀吉個人の命令による先の見えない侵略であるのだから、ここで日本の立場に感情移入して読んでも李氏朝鮮を笑うことは、よほど脊髄反射的な読みをしなければ難しい。
しかも同じ話の後において、日本側も行き違いや一部の思惑で誤った情報が流れ、根本的に誤った戦略のまま侵略計画を立てるというありさまになっている。
しかしまとめブログに採用されたコメントのほとんどが、李氏朝鮮と豊臣政権の類似点に着目することなく、ほぼ反対の感情をもって読まれていた。


李氏朝鮮が滑稽なものとして受容されたのは、固有の“顔”を描かず、思い入れにくく演出した作者の“手腕”によるところ大だろう。固有の名前をもって描かれるのは先述した李舜臣くらいで、全体として「朝鮮人」といった漠然としたくくりでしか読者は把握できない。
慎重に読めば日本内の対立や行き違いも滑稽さをもって描かれているのだが、それが同情や哀愁をもって受容されるのは、関わった個々人が固有の人格をもつかのように描かれているためだろう*2
顔のない属性で人々を区分する欲望、それこそが差別であるということを、結果的にせよ、よく表している光景だと思う。


フィクションとして読者が望むものを提供する作者の手腕は確かに感じられる。そしてその手腕とは、歴史を編集し、心地よい嘘を提供する技術そのものである。
ここで私は作者個人を批判したいわけではない*3。フィクションとして提示された作品であれば、事実を虚構化する手法を指摘することは、むしろ歴史作家としての技術を賞賛することにもなりうる。
作品が受容される状況によっては高い技術ゆえの危険性が生まれ、ともすれば政治的な正しさの観点において「より悪質」と批判されるものだが、それゆえに受容する側の慎重さを求めたいところだ。

*1:戦争全体に影響を与えなかったどころか存在が虚構といっていい真田十勇士が大活躍していたりもするが、その取捨選択自体は作者の自由である。それを読者が批判的に読む自由ももちろんあるが。

*2:感情移入を拒否するような残虐さは慎重に取り除いた上で。

*3:左翼としては批判することを期待されているのだろうが。