法華狼の日記

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秦郁彦教授の従軍慰安婦研究には確かに問題が多いものの

Wikipediaの記述ほどひどくはない。特に「慰安婦論争についての評価」で、秦教授の主張を書いた部分に相当の誤りがある。
秦郁彦 - Wikipedia

慰安婦に関する秦の'90年代の調査は、吉田証言を否定し、慰安婦強制連行(吉見義明のいうところの狭義の強制)の論拠を否定した。慰安婦強制連行を正面から肯定した議論は以後でていない。

なるほど、吉田清治証言一つで示されたものだけが強制連行というのであれば、それは相当に「狭義」な話だ。加害者側の一証言に疑義がさしはさまれた程度で、歴史の学説がくつがえるなどということはまずない。通説となるには、相応の根拠が積み上げられていると考えるべきだ。
おそらく秦項目の編集者は白馬事件も知らないのだろう。戦時中に被害関係者からの抗議で閉鎖され、戦犯裁判でも狭義の強制連行が確定した事件だ。リンクする記述がないため秦教授の項目からは飛べないが、同じWikipediaにも項目がある。そこで「判決で被害者のオランダ人35人のうち全てが強制とはされなかった事、慰安所に連行される以前に売春婦であった女性が存在した可能性について述べている」*1とあるように、秦教授は強制連行されたこと自体は否定していない*2。さらに白馬事件に限らず、フィリピン等の強制連行も秦教授は認めているのである*3
吉田証言に対して現地研究で否定できたのは、証言で示された地域と時期での強制連行という極めて狭い範囲だ。そもそも軍人が戦後に発表した手記が往々にして出版社の要請で編集されることは、近現代を専門に研究する秦教授も知っているはずだろうに。しかも吉田証言を吉見義明教授は最初から採用しておらず、著書でも強制連行の証拠として扱っていない。論拠でない証言を否定しても、吉見教授の主張を否定できるはずがない。
近年も秦教授は従軍慰安婦に対する狭義の強制連行を認めており*4Wikipediaの記述では実態以上に研究者としての評価を落としかねない。

しかし、慰安婦に対する社会的強制(吉見のいうところの広義の強制)を問題とし慰安婦の歴史的事実に関する研究を発表している一部の研究者からは、秦の慰安婦の実体に関する記述はほとんど参照されておらず、秦の調査内容は事実上無視されている。例えば朱徳蘭は、その台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府慰安婦」(明石書店、2005年)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究(38)2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない。一方で、慰安婦の歴史資料を収集、整理し歴史の教訓とすることを事業内容の一つとしており、基金内部に慰安婦関連資料委員会を設置しているアジア女性基金は、秦の研究もとりあげている。

この記述の意味がわからない。先述したように吉田証言は極めて狭い範囲の話であり、従軍慰安婦の全体像からすれば極一部にすぎない。もともと採用されることが少ない証言を批判しただけの研究では、参照されないことは当然だろう。
ちなみに吉見義明『従軍慰安婦』では慰安婦の総数を推計する際に秦郁彦昭和史の謎を追う』を紹介し、海外の兵員数や兵に対する慰安婦の比率は「妥当なところだろう」「この推計は一つの方法であろう」*5と、それぞれ一定の妥当性を認めている。
確かに多くの歴史学者から批判されているものの、秦研究が事実上無視されているという記述もまた、実質以上に立場をおとしめるものだろう。

この問題は対立が激しく、かつ対立点が複数あり、ある学者が中立的な立場と見られることが概して成立しにくいため、中立的と見られる学者による安定した評価も学者間では成立していない。
秦のこの問題についての見解は、権力によって具体的に強制されたかどうかという点に判断基準を置かないなら、当時の世代すべてが強制連行されたことになってしまう、というものである。

知る限り、従軍慰安婦を専門的に研究している歴史学者で、秦教授は孤立というか、よくいえば孤高の立ち位置にある。Wikipediaでも秦研究への「否定」として紹介されているが、近年の歴史学者林博史教授*6や永井和教授*7も秦研究を批判している。
そして対する秦研究の「肯定」は嶋津格教授の一人だけ。それも千葉大学法哲学であり、著作から判断しても歴史学専門ですらない。
秦教授は従軍慰安婦研究においても、「中間」*8ではないのだ。


南京事件ならば、その実在を否定する歴史学者は一人もいないのだから、誤りを明らかにすることは比較的にたやすい。従軍慰安婦問題で歴史修正主義がまかりとおっている理由として、ただ一人でも異論を唱える秦教授の罪は極めて大きいと思っている。
しかし、秦研究が抜粋されて従軍慰安婦問題の否認に利用される時、様々な編集や改竄がなされて実質以上に誤った主張へ劣化していることも少なからずあるのだろう。
ずっと以前にも、秦教授の著作が源流とは確認できないが、少なくとも秦教授が紹介しているより誤った見解がコメントされたことがあった。対する私の反論を引用しておく。
秦郁彦教授は本当に…… - 法華狼の日記*9

ちなみに、この通説に便乗したと思われる「数十万人強制連行説」は存在しました。当時のジャパン・タイムズです。

ジャパンタイムス記事は『慰安婦と戦場の性』13頁で言及されているものがありますね。ただ、秦教授の引用から見ても数十万強制連行とはニュアンスが違います。

ところがジャパン・タイムズ紙はこの外相発言を紹介したのち「この発言は、政府の責任者が日本軍によって第二次世界大戦中に何十万人(hundred of thousands)ものアジア人<慰安婦>に対する強制売春(forced prostitution)に加担したことを、初めて認めたもの」(十三日付、傍線は秦)と悪質な解説文を付け加えた。
 外相が言及せず朝日さえ認めていない「何十万人」とか「強制売春」を、さりげなく足したわけだが(2)、その後は各種のメディアが競合する形で、この方向へ報道と論調をエスカレートさせていく。

(引用文中の外相発言とは、渡辺美智雄が92年1月11日にテレビ出演した際のもの。傍線は「何十万」と「強制売春」に)

(2)ジャパン・タイムズの偏向姿勢は、外国新聞の東京支局を通じて流れ、この問題の海外における初期イメージを定着させたようである(『諸君!』一九九二年八月号の佐瀬昌盛稿参照)。

「連行」であれば主に慰安所へ移動するまでの過程に限った話だが、「売春」であれば慰安所での性行為や管理や拘束までふくまれる。大きく意味が違うことはいうまでもない。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6

*2:参照されているのは『慰安婦と戦場の性』。しかし「可能性」の主張は改めて見てもひどい。かつて自分が選んだ職種と同じであれば、強制連行して劣悪な環境で働かせても問題ないとでも主張するのだろうか。

*3:http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20090802/p1にてStiffmuscle氏が『慰安婦と戦場の性』から当該記述を引用している。

*4:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20070815/1187217373で紹介したが、2007年時点で「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらあります」と認め、当時の安倍首相発言を批判している。

*5:78頁。ただし、慰安婦の交代する頻度があまりに少ないとの批判はくわえている。

*6:http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

*7:http://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20080402

*8:南京事件研究において、秦教授は「中間派」を自称している。しかし、現在の南京事件を専門に扱う歴史学者においては、秦教授は最も犠牲者数を少なく見積もっている。

*9:(2007/08/16 08:15)の書き込み。引用方法を引用枠へ統一。