法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『プラネテス』問題〜名探偵ロックスミスは死者を代弁する〜

三ヶ月ほど前に、マンガ『プラネテス』をめぐる議論があった。
『プラネテス』話 、ロックスミス問題、まとめ - どどどの日誌
その主な焦点となったのが、ロックスミスという人物像だ。
危険な実験を個人的な考えで実行して部下を死なせておきながら、それを痛烈に批難し銃を向けてきた妹に対して、部下は納得ずくだったと語り、結果として責任を回避してしまう。しかも、それを偉大な人物であるかのように演出していたことが、批判の対象となった。政治的な正しさの面からも、そういう人物の描写としては工夫がないという面からも、論争となったわけだ。
ただ、ロックスミスの位置づけについて、あまり指摘されない点があるので、今さらながら書いてみる。


まず現実的に考えて、たかだか同業者であり上司であり先輩であっただけの存在が、死者の真意を知ることはできない。もちろん交流していた者としての推測は可能だし、遺された言葉から真意を探っていく展開にも説得力はあったが、やはり全幅の信頼を置くことはできない。
しかし、だからといって、ロックスミスが独善的だとか、キャラクターとして稚拙とか、作者の技術に問題があるとか主張したいわけではない。そもそも原理的に、作中人物は同一階層の作中真実に到達することができないのだから*1
もし作者の意図を代弁しているかのような特権的な演出がされていたとしても、それが本当に作者の意図を代弁していることを示すのか、それとも虚言を説得力あるように語れる詐欺師なのか、誰にもわからないのだ。もちろん作中人物自身にとっても判断できない。どれだけ知性の高い存在であっても。


現代のミステリ、それも論理性をつきつめた「パズラー」というジャンルへ特に興味を持っている者には、「後期クイーン問題」というものが知られている。
論理的な推理で有名なエラリー=クイーンというミステリ作家が、論理性と意外性をつきつめていった後期作品において*2、論理だけで作中人物が真相へたどりつくことができないことを明らかにしたという問題だ。具体的な例としては、実に論理的に示されたかのよう見える犯人像が、背後であやつる者によって形成されたという真相が用意されたりする。
つまり、どれほど名探偵がもっともらしく推理を開陳しようとも、名探偵の持つ情報は犯人が意図せず残した手がかりなのか、名探偵を誤誘導しようと犯人が意図して配置した偽の手がかりなのか、確定できない。加えて、新しい手がかりが出てくることで異なる推理が生まれないかも、原理的に判断できないわけだ。
なお、「後期クイーン問題」を現在のミステリが全て考慮しているかというと、必ずしもそうではない。蓋然性の高い推理が示されれば良いという手法や*3、手にしている情報が正しいと仮定する手法*4、メタな視点から真実を決定する手法*5、等々の回避方法も試みられている。しかし、どの回避方法も、作中人物が作中真実に到達できないという原理自体を否定できたわけではない。


さて、誰も死者を代弁できないという問題を延長すれば、遺族ならば死者を代弁してもいいのかという問題も出てくる。
当該回は、兄を愛していた妹の身勝手な思い込みを批判するという物語構造にもなっている。つまりロックスミスは死者の真意を示すため、名探偵のような立ち位置にあるわけだ。物語において特権的な立場にあるはずの名探偵ですら死者を代弁できないならば、なおさら他のキャラクターも代弁することはできない。
もちろん遺族は一般的に死者の代弁を許容されているし、追慕の念は重要と思うが、現実には家族の心情を全て理解しているはずもないし、死者ならばなおさらだ*6
だからこそ、ロックスミスの決め台詞*7は……

君の
その愛が


彼の心を
とらえた事など
なかったのだよ

……でなければならなかったのだろう。あくまで物語が描き、感情をとらえようとしている中心はロックスミスではなく、妹なのだ*8
そこにいたる台詞回しも巧妙だ。「君も私もヤマガタ君の死になんの影響も及ぼしていない」*9という言葉は、作中では一種の責任逃れであることも事実だが、誰も死者を代弁することはできないということの、感覚的な伏線にもなっている。


最後に、ロックスミスの言葉が、必ずしも真意とは限らないことも指摘しておこう。
ロックスミスが該当する台詞を発したのは、妹が銃をつきつけてきて、死の危険性すらある極限状況においてだった。そういう特殊な状況においてロックスミスは長々と語り、それを聞いた結果として妹はロックスミスを殺すことではなく自殺を選ぼうとする。
つまりロックスミスの台詞は、まさにその場逃れのものだったとも読める。発言が責任逃れな内容であることも当然だ。
そして真意とは限らない台詞であることは、発言を一個人の思考によるものではなく、物語全体が偶然にいわせた形にする効果もある。極論をいえば、劇中劇が偶然に劇中の現実を反映する暗喩描写に近い。ミステリやサスペンスでは、極限状況から逃れるために、思ってもいない偽善や露悪をキャラクターが演じ、偶然に真実をとらえる展開は珍しくない*10
もちろん、『プラネテス』においては、ロックスミスの台詞はロックスミスの心情を反映したものだろうし、物語全体を読んでもロックスミスらしい主張とはなっている。ただ、本来なら発されるべきでない台詞を極限状況ゆえに発し、たまさか真実をついたのかもしれないと留意できる内容になっていることも事実だ。作中台詞は、作家の真意と限らないのみならず、作中人物の真意とも限らない。

*1:ただし、異なる階層ならば到達できる場合はある。たとえば作中記述に対して、作中記述者が真意を明かすようなことはできる。

*2:厳密には中の人の問題で作風が変化したことも考慮にいれるべきだが、今回は省略する。

*3:要するに、最も状況を説明できる仮説を正しいと考えるわけ。ある意味では現実的な対応といえる。

*4:名探偵自身が断りを入れたりする場合も多い。

*5:地の文で作者自身が解説するような例がある。ゲーム『うみねこのなく頃に』における魔女の宣言が近い。

*6:むしろ、理解する機会を奪ったからこそ、死なせてしまった者の責任が問われるといえるか。

*7:59頁。

*8:プラネテス』全体に対する一部と見れば、妹の孤独でロックスミスの孤独を暗喩しているわけだが、当該回に限定すればロックスミスの内面はほとんど明示されていない。

*9:56頁

*10:ネタバレで具体的には上げないが、誘拐事件で犯人と交渉するような作品で、複数あると思う。