法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ゾンビ(ディレクターズ・カット版)』

死人がよみがえり、人々をおそって食べるようになった世界。まともな放送ができなくなったTV局から逃げ出した男女と、白人と黒人の警官コンビが合流。不足する燃料に苦労しながら、ヘリコプターで郊外のショッピングモールにたどりつく。ショッピングモールから死人を排除することに成功した4人は、つかのまの安心と快楽を入手したかに見えたが……
ジョージ・A・ロメロ監督による1978年の作品。映画祭のために監督自身が編集した139分の長尺版が、GYAO!で1月19日まで無料配信中。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00569/v08434/


この作品を発端として、死体のような存在が動いて人々を襲う設定を「ゾンビ」と呼ぶようになったという。作中でも言及されているように、ブードゥー教で蘇生された死者が「ゾンビ」と呼ばれていたわけだが、本来は呪術的に使役される死者を指しており、この作品のように死者が無差別によみがえって人々を襲うような存在ではなかった*1
そうしてゾンビ映画の源流として見ると、動作が遅くて知能も低いゾンビ像が、強力な怪物となった現代のゾンビ像と好対照で、全く違った面白味があった。訓練を受けた警官はもちろん、一般男性ですらゾンビの群れを走ってくぐりぬけることができる。ロメロ監督が生ける屍を描いた最初の映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』よりも、さらに脅威度が低い。
あまりにも遅すぎるゾンビに登場人物は油断していき、小さな失敗や人間同士の対立から命を落としていく。どこかから怪物に襲われるという緊張感ではなく、わかっているのに油断してしまうという緊張感。
ゾンビの外見が血色が悪いだけの人間という安さも、風景に溶けこんでいる死体という映像をつきつめて見せており、低予算という印象はない。むしろ倒す側が心を病んで慢心していく展開へ説得力を与えていた。登場人物が愚かなことをしているが、そうしてしまう心情は理解できるよう描かれているからこそ、もどかしい。


物語の情報量も適切。TV局から導入することで自然に説明しつつ、どれくらい情報が不足しているか登場人物の立場から理解できる。そして描写に無駄がない。
ゾンビの由来を長々と説明することなくすませ*2、しかしゾンビがどのような行動原理で対処できるかは必要充分に説明。その世界でどのような存在かが明確だから、ショッピングモールからゾンビを排除する手法がそれなりに合理的に見えて、ゲームを観戦するような楽しさと危うさがあった。
平和なひとときの演出もいい。刹那的な快楽を描きつつ、ちゃんと失われた存在を悼み、他人を思いやる一瞬も描く。主要登場人物がたった4人だからこそ、ショッピングモールの巨大さと対比されて、平和の空虚さがきわだつ。
そうした対比表現は、この作品全体に満ちていて、なおかつうるさくない。演出の必要性だけで対比描写がされているわけではなく、対比する存在がそこにあるだけの理由が作中で描かれているからだろう。たとえばゾンビと対峙する場面で、あえてポップな音楽を流す手法カウンタープンクトが多用されているが、その音楽はショッピングモールに備えつけられたものであり、ゾンビを混乱させる作戦という流された理由もある。ありえない設定の作品だからこそ、可能な限り合理的な描写をしなければ作品から実在感が消えてしまう。


登場人物のこずるさを正面から見せていくし、肉体損壊も露悪的なくらい激しいが、ふしぎと静謐で上品な雰囲気の作品だった。どこまでも登場人物をつきはなして描いているためだろうか。はっきり狂騒的な場面はクライマックスくらいだ。
しかし結末まで見ると、けっこう愚かしい登場人物なのに、いとおしさを感じられるようになった。2時間以上をかけて、類型にとどまらない登場人物の姿が描かれていくことで、血肉が通った存在に見えてくる。

血の気を失った死体への思い入れを否定する物語だからこそ、今そこに生きている相手を思いやる意味が感じられてくる。さらにその思い入れすら一度つきはなし、なおかつ全否定はしない。そういう映画だった。

*1:どちらかといえば、『カーミラ』や『ドラキュラ』で貴族的なイメージがつくようになる以前の古典的な吸血鬼が、現代のゾンビの源流となっているようだ。実際に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッドからして、ロメロ監督の発言によると、吸血鬼が蔓延した世界を描いた『地球最後の男』をイメージソースにしているという。

*2:星が爆発した影響という設定を見たか聞いたおぼえがあったが、日本語版独自の設定らしい。宇宙線の影響という設定は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の作中でも一説としてとなえられていたが。