法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

死した英雄には鎮魂の花束を

英雄が殴られるまで - 法華狼の日記*1

ちなみに、ごく個人的な考えだが、toled氏の行動が一部で反発されている理由は、その存在が英雄からほど遠いからではない気がする。むしろ英雄らしい資質を持っているからこそ、冷笑されているのではないかと思う。いや、toled氏が軽率とか間抜けとかいう話ではなくて。

属人的な発想は、思想と行動に一貫性がある時にだけ妥当性を認めるとは限らず、思想と行動が相反している時こそ妥当性を認めることもある、と注意しておく。英雄視ゆえの賞賛もあれば、意外性ゆえの賞賛もあるし、党派性ゆえの賞賛もある。賞賛が可能かどうかは行為の妥当性と関係あるが、賞賛を表明する動機は行為の妥当性だけでは決まらない。
もし、言及する動機を持つと同時に、賞賛したくない動機を持っていれば、歪んだ意見が生まれるというわけだ。

この論点をもう少し掘り下げて考えてみる。


今回の件で感じたのは、排外主義反対を主張した人がtoled氏と知られた後、それを予想外と受け止める意見が見当たらなかったことだ。以前から存在を知る多くの人が、いかにもtoled氏らしい行動と受け止めた。行動に対する評価の良し悪しとは別に。
ある者は「友人」と表明して言及し、ある者は「同情」ができなくなったと発言し、ある者は「電波」と評した。行動したのがtoled氏と知った後で*2
どちらにしても、toled氏が排外主義に反対しそうにないとは誰も思わなかった。集団暴行が在特会の思想と地続きであることと同じように、排外主義へ反対する主張はtoled氏と地続きであったのだ。


いつもはtoled氏を評価しない人が、うっかり排外主義反対者を評価してしまった時、あわてて評価を取り消す必要はない。
「やるじゃんtoled、ちょっと見直したぜ!」とか「君の頑張りは、こういう方面にだけ向ければいいのに」といった発言を選べばいい。行動を評価しつつ行動者を全肯定しない態度は、そう難しいものではない。実際にも、同じような態度をいくつか見かけた。しかし大勢をしめているとは感じられない。


よく見受けられるのは、在特会が集団暴行した責が減じられるとはいえないtoled氏の態度を持ち出す態度や、ことさら暴行と全く無関係な言動を持ち出して相対化する態度だ。
前者については、在特会への批判とは別次元の批判と表明しておけば、必ずしも批判するべきではない。問題は後者だ。
http://d.hatena.ne.jp/plummet/20090928/p1

被害者が電波であっても、加害の重さが免じられるわけでもないし、加害されたからといって被害者の電波っぷりが同情されるわけでもないのにな。
「どっちも平等に価値がない」

すでにコメントした話だが、排外主義反対行動が正しいと主張することと、排外主義反対者を全肯定することは、わざわざ明文化するまでもなく別問題のはずだ。
私はtoled氏の思想が排外主義反対行動を導いたと考えるが、それと同時に、toled氏の全思想が悪い行動をもたらさないとはいえないと考える。


ここで一つ思い出すべきことがある。
小林よしのり氏は、かつて「英雄」だった。祭り上げられ、地に落ちた。祭り上げた者の中には、明らかに左翼に位置づけられる者もいた*3。地に落ちた原因が何にあるかはここでは問わない。まだ飛んでいると思う人もいるだろうが、とりあえず検証は省略して先に進める*4
注意しておきたいのは、最近では嘲笑すらされている在特会維新政党新風もまた、かつて小林よしのり氏と同様に「英雄」だったことだ。少なくともインターネット上では熱心な広報活動の効果もあってか、相当数の賛同者を獲得していた。
さらに在特会は関係者が商業出版にも参加しており、けしてインターネットでしか意見表明できない暴力集団と単純に切り捨てられる存在ではない。


ほんの少し前まで、小林よしのり氏、自由主義史観、新しい歴史教科書をつくる会、それらの活動と地続きで歴史修正主義がインターネットに広く流布していた*5。本当にひどい状況だったと、当時を思い出しながら胸が痛くなる。
たとえば南京事件否定論についていうと、小林よしのり戦争論』の読者に対する影響のみならず、インターネットではファンクラブの活動が活発だったし、後の『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した東中野修道氏もつくる会関係者で小林よしのり氏と知己であった。
インターネット上の南京事件論争を昔から見てきた*6経験から、南京事件否定論が無効化されている現状は、人々のたゆまぬ努力があったからこそと確信している。念のため、努力した人々は左翼にとどまらず、右翼に位置する者も多かったし、軍事趣味の観点から南京事件否定論をしりぞけた者も少なくなかった。そうして資料が充実していき、批判の理路が整理されていった。
現在のインターネットでは、素朴な南京事件否定論は否定しやすくなり、懐疑論や中立論という形式でしか成り立たなくなっている。集団暴行したことで擁護できなくなり、対立者の問題を探すことしかできなくなった在特会への同調者と、よく似た状況だ。前者の状況は人々の努力によってなされた。では、後者の状況はどうだろう。人々が努力しなくても在特会の問題が誰の目にも明らかになることはなかったのか。可視化される以前には批判してはならなかったのか。


最近に南京事件否定論在特会維新政党新風を知って、批判に値しない程度の存在と思えたとしても、それは最初から批判に値しない程度だったとは限らない。
批判せずにすませられる状況を用意してもらいながら、批判されている者を嘲笑した上で、批判してきた者をも嘲笑できると思うならば、それは歴史の修正による思い上がりではないか。
何も、批判してきた者を全肯定するべきという話ではない。それでは小林よしのり氏や在特会を今も支持する者と代わりない。ただせめて、批判してきたことの妥当性を誠実に見極めて評価するべきという話だ。
祭り上げた英雄が死んだからといって、忘れてはならない。私自身の話としても、そう思う。

*1:なお、冒頭で引用したmujin氏のコメントについては、コメント欄で解説していただいている。

*2:もっとも、軽率や無謀というくらいの評価は、toled氏と知られる前からあったと思う。そういえば一部で挑発とは別の意味で「自作自演」という疑惑もかけられていた。

*3:上杉聰『脱ゴーマニズム宣言』において、著者は小林よしのり氏を高評価していた過去を告白し、復活を希望する章まで書いている(94頁)。ちなみに、かつて小林よしのり氏の武器であった表現力が、後に表出した問題点と地続きであることも指摘されている(15頁)。評価できる行動を導いたパーソナリティが、他方で評価できない行動を導く種になることは、例外的な状況ではない。

*4:Mukke氏が精力的に批判エントリを上げているので、最新のものを紹介しておこう。http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20090929/1254249911

*5:他国のインターネット状況を見る限り、小林よしのり氏らが活動しなくても、別の歴史修正主義者がはびこったことだろうが。

*6:さほど私は力を込めて論争に加わっていない。だから少なくとも今回、私の努力を認めてほしいという話はしない。